産褥
産褥熱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:11 UTC 版)
「ステファン・タルニエ」の記事における「産褥熱」の解説
19世紀に大流行した産褥熱で1860年代にはパリの病院で出産した女性の12人に1人が死亡していたのに対し、タルニエがいたパリ医大病院では178人に1人の死亡に抑えられていた。 タルニエは、1857年に発表した論文と1858年に発表した著書の中で、産褥熱は敗血症を伴う伝染病であり、空気中、つまり肺を介して感染すると考えていた。 この論文は、センメルヴェイス・イグナーツ(1818 - 1865)の論文と比較すると偽物である。この論文を当時のタルニエが認識していたかどうかは定かではない。センメルヴェイスは、汚れた手を介して直接接触することで伝染することを明らかにして「手洗い」という最初の対策を提案した。 医学の世界では、間違った考えから出発して良い結果が得られることがある。空気感染を防ぐために、タルニエは感染した母親と健康な母親を別々の専門スタッフがいる隔離された病棟に入れることを提案した。この対策は1870年以降にしか適用されなかったが、無菌操作を行わなくても、出産する女性の病院での死亡率が9%から2%に減少した。 ルイ・パスツール(1822 - 1895)の発見やジョゼフ・リスター(1827 - 1912)の無菌療法を受けて、ポール・バール(1853 - 1945)やジャック・アメデ・ドレリス(1852 - 1938)などの弟子たちに実践を勧めた。医学細菌学は、タルニエの指導の下、産科学講座の教育の一環として行われており、タルニエの講座には研究室が設けられ、ドレリスは1881年から1883年まで初のプレパラート(実験室の技術者)として活躍した。 1880年には弟子のドレリスが、出産する女性の外性器に殺菌液に浸した布を使用する論文を発表して、死亡率は2%から0.3%へとさらに低下した。タルニエはその後塩化水銀、ヨウ化水銀などの水銀化合物の膣内注射や子宮内注入を行った。 1890年、彼は自分の研究を『L'Antiseptie en Obstétrique』という堂々とした著作にまとめた。批判の声はますます高まり、危険なものとなっていった。タルニエは「水銀は最も強力な抗菌剤だが、残念ながら毒性があるので、使用には細心の注意を払わなければならない」と書いてついに断念した。
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