死体粒子理論と消毒法
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「センメルヴェイス・イグナーツ」の記事における「死体粒子理論と消毒法」の解説
1844年7月1日、センメルヴェイスはウィーン産科病院の研修医の助手となり、次いで1846年7月1日、センメルヴェイスはウィーン総合病院第一産院のヨハン・クライン(ドイツ語版、英語版)教授の助手となった。これは現在のチーフレジデントに近い地位であった。彼の仕事は、教授の回診の準備のために毎朝患者の検査を行い、難産の指揮をとり、学生に教えるなどで、記録をとる事務的な仕事も受け持っていた。しかし同年10月20日、前任者のフランツ・ブライト(ドイツ語版、英語版)博士が突然戻ってきたため、センメルヴェイスは降格させられた。翌1847年3月20日にフランツ・ブライト博士がテュービンゲンの大学教授に転任したため、センメルヴェイスは元の職に復帰した。 産科の制度は、非嫡出子が殺される(子殺し)問題に対処するためにヨーロッパ全土で導入が進んでいた。恵まれない環境の女性でも無料で医療が受けられる代わりに、産婦たちは医師や助産師の訓練台とされた。ウィーン総合病院には2つの産科があり、第一産科では産婦の10パーセントが産褥熱などにより死亡していた。一方で第二産科での死亡率は4パーセントに満たず、この差異は院外にも知れ渡っていた。両産科は日替わりで診療を行っていたが、妊婦たちは評判の悪い第一産科よりも第二産科にかかりたがった。センメルヴェイスによれば、女性たちが医師たちの足にすがりついてまで、必死に第一産科に回されないよう請うたという。中には、「病院に行く途中で生まれた」と称して院外で出産する妊婦もいた。彼女たちは産院で出産すること自体に利を見出さなかったのである。センメルヴェイスは、むしろこうした街中で出産した場合の方が、産褥熱にかかる例が少ないという事実に困惑した。「私には、街中で出産する妊婦の方が、少なくとも産院で出産する妊婦よりは健康を損ないやすい、という方が理にかなっているように思えた。(中略)いったい何が、産院の外で出産する者を、破壊的で不明な風土病の影響から守っているというのか?」 またセンメルヴェイスは、自分の所属する第一産科が第二産科よりはるかに高い死亡率を出していることにも悩まされていた。このことは「まるで生命が無価値であるかのように、私を惨めな気持ちにさせた」。一見して、二つの産科の技術には大きな差異は無かった。センメルヴェイスはごく細部の差異を、宗教的な部分すら含めて見つけ出そうとした。結局、大きな違いは働いている人間が違うということだけだった。第一産科は医学生の教育のための医院であるのに対し、第二産科では1841年に選ばれた助産婦だけが勤務していた。 第一産科と第二産科の産褥熱による死亡者数の票(1841年-1846年)。この前後の記録については、en:Historical mortality rates of puerperal feverを参照のこと。 第一産科 第二産科 年 出生数 死亡数 死亡率 (%) 出生数 死亡数 死亡率 (%) 1841 3,036 237 7.8 2,442 86 3.5 1842 3,287 518 15.8 2,659 202 7.6 1843 3,060 274 9.0 2,739 164 6.0 1844 3,157 260 8.2 2,956 68 2.3 1845 3,492 241 6.9 3,241 66 2.0 1846 4,010 459 11.4 3,754 105 2.8 まずセンメルヴェイスは、人間の過密具合の差異を除外した。いつも第二産科の方が混みあっているのに、死亡率は低いからである。また気候条件も、両産科で同じであるため除外された。大きな進展が起きたのは1847年である。この年、センメルヴェイスの友人でもあった同僚のヤコブ・コレチカ(英語版)が、産褥熱で死亡した患者の遺体の検体解剖を学生らに指導していた際に誤ってメスで指を傷つけてしまい、その後自身が産褥熱に似た症状を発して死去してしまった。センメルヴェイスは、ここに死体の「汚染」と産褥熱との関係を見出した。 最終的に、センメルヴェイスは、「手についた微粒子」(an der Hand klebende Cadavertheile)が、第一産科の中で解剖室から患者に移されているのだと結論付けた。この考えは、死亡率の低い第二産科の見習い助産師が解剖に参加せず、遺体と接触していないことにも裏付けられていた。 当時、ウィーンではまだ細菌の概念が受け入れられていなかった。そのため、センメルヴェイスは未知の「死体粒子」が産褥熱を引き起こすのだとした。彼はその解決策として、解剖室での仕事と患者の検査の仕事の間でさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)を使って手を洗浄する、という消毒法を提示した。彼が次亜塩素酸カルシウムを選んだのは、産褥熱遺体を取り扱った後の解剖台の臭いを消すのに塩素消毒が最も効果的であったことから、次亜塩素酸カルシウムには死体の有毒で汚染された粒子を消す働きがあるのではないか、と考えたためであった。 1847年4月の時点で、第一産科の死亡率は18.3パーセントであった。5月半ばにセンメルヴェイスの手洗い消毒が導入されたのち、6月には2.2パーセント、7月に1.2パーセント、8月に1.9パーセントと、劇的な死亡率低下がみられた。さらに解剖の場にも指導が入ったことで、翌年には2回も月間死亡率0パーセントを達成する快挙を成し遂げた。
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