死体粒子理論と消毒法とは? わかりやすく解説

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死体粒子理論と消毒法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 14:42 UTC 版)

センメルヴェイス・イグナーツ」の記事における「死体粒子理論と消毒法」の解説

1844年7月1日、センメルヴェイスはウィーン産科病院研修医助手となり、次いで1846年7月1日、センメルヴェイスはウィーン総合病院第一産院のヨハン・クライン(ドイツ語版英語版教授助手となった。これは現在のチーフレジデントに近い地位であった彼の仕事は、教授回診準備のために毎朝患者検査行い難産指揮をとり、学生教えるなどで、記録をとる事務的な仕事受け持っていた。しかし同年10月20日前任者のフランツ・ブライト(ドイツ語版英語版博士が突然戻ってきたため、センメルヴェイスは降格させられた。翌1847年3月20日にフランツ・ブライト博士テュービンゲン大学教授に転任したため、センメルヴェイスは元の職に復帰した産科制度は、非嫡出子殺される子殺し問題対処するためにヨーロッパ全土導入進んでいた。恵まれない環境女性でも無料医療受けられる代わりに産婦たちは医師助産師訓練台とされた。ウィーン総合病院には2つ産科があり、第一産科では産婦10パーセント産褥熱などにより死亡していた。一方で第二産科での死亡率は4パーセント満たず、この差異院外にも知れ渡っていた。両産科日替わり診療行っていたが、妊婦たちは評判の悪い第一産科よりも第二産科にかかりたがった。センメルヴェイスによれば女性たち医師たちの足にすがりついてまで、必死に第一産科回されないよう請うたという。中には、「病院に行く途中で生まれた」と称して院外出産する妊婦もいた。彼女たち産院出産すること自体に利を見出さなかったのである。センメルヴェイスは、むしろこうした街中出産した場合の方が、産褥熱にかかる例が少なという事実に困惑した。「私には、街中出産する妊婦の方が、少なくとも産院出産する妊婦よりは健康を損ないやすい、という方が理にかなっているように思えた。(中略)いったい何が産院の外で出産する者を、破壊的不明な風土病影響から守っているというのか?」 またセンメルヴェイスは、自分所属する第一産科第二産科よりはるかに高い死亡率出していることにも悩まされていた。このことは「まるで生命無価値あるかのように、私を惨めな気持ちにさせた」。一見して二つ産科技術には大きな差異無かった。センメルヴェイスはごく細部差異を、宗教的な部分すら含めて見つけ出そうとした。結局大きな違い働いている人間が違うということだけだった第一産科医学生教育のための医院であるのに対し第二産科では1841年選ばれ助産婦だけが勤務していた。 第一産科第二産科産褥熱による死亡者数の票(1841年-1846年)。この前後の記録については、en:Historical mortality rates of puerperal fever参照のこと。 第一産科 第二産科出生数 死亡死亡率 (%) 出生数 死亡死亡率 (%) 1841 3,036 237 7.8 2,442 86 3.5 1842 3,287 518 15.8 2,659 202 7.6 1843 3,060 274 9.0 2,739 164 6.0 1844 3,157 260 8.2 2,956 68 2.3 1845 3,492 241 6.9 3,241 66 2.0 1846 4,010 459 11.4 3,754 105 2.8 まずセンメルヴェイスは、人間過密具合差異除外した。いつも第二産科の方が混みあっているのに、死亡率は低いからである。また気候条件も、両産科で同じであるため除外された。大きな進展起きたのは1847年である。この年、センメルヴェイスの友人でもあった同僚のヤコブ・コレチカ(英語版)が、産褥熱死亡した患者遺体検体解剖学生らに指導していた際に誤ってメスで指を傷つけてしまい、その後自身産褥熱似た症状発して死去してしまった。センメルヴェイスは、ここに死体の「汚染」と産褥熱との関係を見出した最終的に、センメルヴェイスは、「手についた微粒子」(an der Hand klebende Cadavertheile)が、第一産科の中で解剖室から患者移されているのだと結論付けた。この考えは、死亡率の低い第二産科見習い助産師解剖参加せず遺体接触していないことにも裏付けられていた。 当時ウィーンではまだ細菌概念受け入れられていなかった。そのため、センメルヴェイスは未知の「死体粒子」が産褥熱引き起こすのだとした。彼はその解決策として、解剖室での仕事患者検査仕事の間でさらし粉次亜塩素酸カルシウム)を使って手を洗浄する、という消毒法を提示した。彼が次亜塩素酸カルシウム選んだのは、産褥熱遺体取り扱った後の解剖台の臭いを消すのに塩素消毒が最も効果的であったことから、次亜塩素酸カルシウムには死体有毒汚染され粒子を消す働きがあるのではないか、と考えたためであった1847年4月時点で、第一産科死亡率は18.3パーセントであった5月半ばにセンメルヴェイスの手洗い消毒導入されたのち、6月には2.2パーセント7月1.2パーセント8月1.9パーセントと、劇的な死亡率低下がみられた。さらに解剖の場にも指導入ったことで、翌年には2回も月間死亡率0パーセント達成する快挙成し遂げた

※この「死体粒子理論と消毒法」の解説は、「センメルヴェイス・イグナーツ」の解説の一部です。
「死体粒子理論と消毒法」を含む「センメルヴェイス・イグナーツ」の記事については、「センメルヴェイス・イグナーツ」の概要を参照ください。

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