従来の医学との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 14:42 UTC 版)
「センメルヴェイス・イグナーツ」の記事における「従来の医学との対立」の解説
センメルヴェイスの発見は、当時の科学界や医学界の常識とは相いれないものだった。人体についてはまだ四体液説の影響が根強く残り、病気の治療と言えば瀉血が主であった。当時の医学書では、あらゆる病気は体内のバランスが崩れて起こるものであると説明されており、患者ごとにそのバランスの崩れ方を見極めるのが医者の仕事だった。 また産褥熱で死亡した女性の遺体を解剖すると多岐にわたる症状が確認できたことから、産褥熱は一つの病気ではなく、未定義の様々な病気の総称であると考えられていた。 センメルヴェイスの成果が拒絶された現象は、頑迷な保守性の例として心理学的分析の対象とされている。また科学史家の中には、画期的な科学的発見には不特定多数の科学者たちからの反発がつきものであり、「科学の進歩を阻害する最も恐るべき障害となる」と指摘している者もいる。 結局、センメルヴェイスの考えは当時の医学界で拒絶された。彼の説は、より些細な点で反発を招いた節があった。例えば社会的に高尚な地位にある紳士を自認する一部の医者たちは、自分たちの手が不清潔なのだと示唆するようなセンメルヴェイスの説を受け入れがたかったのである。 またセンメルヴェイスは、自分の説に十分な科学的説明を与えることができなかった。それが可能になるのは、ルイ・パスツールやジョゼフ・リスターらが細菌論を確立する数十年後の事であり、センメルヴェイスには時代的制約があった。 1848年の間に、センメルヴェイスは自身がかかわるあらゆる患者に触れる際に自身の手洗い消毒法を実践し、時系列的に死亡率の推移を記録することで、産褥熱が駆逐されていく様を示した。
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