マリー・ド・ブルボン=モンパンシエとは? わかりやすく解説

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マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 08:24 UTC 版)

マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ
Marie de Bourbon-Montpensier
ブルボン=モンパンシエ家

称号 オルレアン公
出生 (1605-10-15) 1605年10月15日
フランス王国、ガイヨン城
死去 (1627-06-04) 1627年6月4日(21歳没)
フランス王国パリルーブル宮殿
埋葬 フランス王国サン=ドニ大聖堂
配偶者 オルレアン公ガストン
子女 アンヌ・マリー・ルイーズ
父親 モンパンシエ公アンリ・ド・ブルボン
母親 アンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズ
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マリー・ド・ブルボン=モンパンシエMarie de Bourbon-Montpensier, Mademoiselle de Montpensier, 1605年10月15日 - 1627年6月4日)は、ブルボン朝期のフランスの貴族。オルレアン公ガストンの最初の妃、またモンパンシエ公爵夫人(女公)。ヴァロワ朝以来続いたブルボン家の支流ブルボン=モンパンシエ家の最後の末裔である。

生涯

モンパンシエ公アンリ・ド・ブルボンの唯一の子供として生まれた。1608年に父が死去するとブルボン=モンパンシエ家の相続人となり、モンパンシエ令嬢(Mademoiselle de Montpensier)と呼ばれた。母アンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズはその後、1611年にギーズ公シャルル1世と再婚した。

マリーは2歳の時にフランス王アンリ4世の次男のオルレアン公と婚約したが、オルレアン公は1611年に夭逝した。次いでその弟で新たにオルレアン公となったガストンと婚約した。

マリーとオルレアン公ガストンは1626年にナントで結婚した[1]。翌1627年、2人の間に1女アンヌ・マリー・ルイーズ(1627年 - 1693年)が生まれたが、その出産後間もなくマリーは死去し[2]サン=ドニ大聖堂に葬られた。

脚注

  1. ^ 戸張、p. 32
  2. ^ 戸張、p. 35

参考文献

  • 戸張規子 『ブルボン家の落日 ヴェルサイユの憂愁』 人文書院、1991年

関連項目

  • ブルボン=モンパンシエ家
先代
アンリ
モンパンシエ公
オーヴェルニュのドーファン
1608年 - 1627年
次代
アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン




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