宮廷画家
宮廷画家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:29 UTC 版)
「クレヨンしんちゃん 激突! ラクガキングダムとほぼ四人の勇者」の記事における「宮廷画家」の解説
王の絵を描く宮廷画家。姫にミラクルクレヨンを託されしんのすけに渡す。その後、ラクガキ兵士に捕らわれてラクガキングと姫と共に拘束された。
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宮廷画家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:31 UTC 版)
「ディエゴ・ベラスケス」の記事における「宮廷画家」の解説
1623年、マドリードに2回目の旅行に行く。このとき、スペインの首席大臣であったオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンの紹介を受け、国王フェリペ4世の肖像画を描いた。国王に気に入られてフェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。 美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケスを厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りしていたという。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えていた。 ベラスケスの作品では、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見える。このような、近代の印象派にも通じる油彩画の卓越した技法が、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価したゆえんである。 1628年には、スペイン領ネーデルラント総督のイサベル・クララ・エウヘニアから外交官として派遣されてきたピーテル・パウル・ルーベンスと出会い、親交を結んだ。この年から翌年にかけて、「バッカスの勝利」を描いている。 1629年、美術品収集や絵画の修業などのためにイタリアへの旅行が許される。イタリアへ向かう船の中でオランダ独立戦争の英雄であったアンブロジオ・スピノラと同乗することとなり、親交を結んだ。イタリアではヴェネツィアやフェラーラ、ローマに滞在し、1631年にスペインへと戻った。 帰国後、1634年から1635年にかけて、新しく建設されたブエン・レティーロ離宮の「諸王国の間」に飾る絵の制作を依頼され、すでに故人となっていたスピノラ将軍をしのんで「ブレダの開城」を制作。他にも1637年には「バリェーカスの少年」、1644年には「エル・プリーモ」や「セバスティアン・デ・モーラ」など多くの作品を制作し、役人としても順調に昇進していった。 1648年には2回目のイタリア旅行に出発し、1651年まで同地に滞在した。各地で王の代理として美術品の収集を行うかたわら、「ヴィラ・メディチの庭園」、「鏡のヴィーナス」や「教皇インノケンティウス10世」などの傑作を制作している。 1649年、ローマで「フアン・デ・パレーハの肖像(英語版)」を制作した。この作品は、1970年11月27日にロンドンのクリスティー&ウッズで231万ポンドで落札されたとして、かつてギネスブックに「オークションで最高値の絵」として認定されていたことがある。 1651年に帰国すると、1652年には王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長という重職につくようになり、役人としても多忙となる。一方で、1656年には「ラス・メニーナス」を制作し、1657年には「織女たち」、1659年には絶筆となる「マルガリータ王女」など、この時期においても実力は衰えず、大作を完成させていった。1660年にはフェリペの娘であるマリー・テレーズ・ドートリッシュとフランス国王ルイ14世との婚儀の準備をとりしきるが、帰国後病に倒れ、1660年8月6日にマドリードで61歳で死亡した。 ベラスケスは寡作であり、2度のイタリア旅行や公務での国内出張を除いてはほとんど王宮内ですごした上、画家としてのほとんどの期間を宮廷画家として過ごしたためにその作品のほとんどが門外不出とされ、21世紀の現在でもおよそ120点の作品のうち3分の1がマドリードにあるプラド美術館の所蔵となっている。
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