明代の宮廷画家
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李在(りざい)、林良(りんりょう)、呂紀(りょき)らの宮廷に仕えた画家を宮廷画家あるいは画院画家と称する。ただし、宋代と異なり明代においては翰林図画院という名称の機関は設置されず、画家は宮中の仁智殿、武英殿などに属して、待詔(たいしょう)、供奉(きょうほう)などの官職を与えられた。宋代の画院では画家には武官の官位が与えられたが、明代もこれに習って、画家には錦衣衛(近衛軍)の指揮、鎮撫、総旗などの官位が与えられることが多かった。たとえば、呂紀は武英殿待詔で錦衣衛指揮であった。明初の洪武年間には宮廷画院の存在は不明確であり、記録や画家自身の記した款記から画院の存在が明確になるのは永楽年間(1403 - 1424年)からである。明代の宮廷画院については、史料が乏しく、その機構、性格、成立時期、存続期間など、不明の部分が多い。前述の、画家に対する錦衣衛の官職任命についても、なぜ任命されたのかを含め、よくわかっていない。この時期の宮廷画家としては辺文進(へんぶんしん)、李在、周文靖(しゅうぶんせい)、孫龍(そんりゅう)、倪端(げいたん)などが挙げられる。これらの宮廷画家らの出身は浙江、福建方面に集中していた。明中期の天順(1457 - 1464年)、成化(1465 - 1487年)、弘治(1488 - 1505年)年間には林良、呂紀、呂文英(りょぶんえい)、王諤(おうがく)、朱端(しゅたん)、陳子和(ちんしか)などが宮廷画家として活動した。これらの画家の出身は、林良が広東、呂紀が湖南寧波であるなど、さまざまである。これ以後の明後期には画壇の主流は文人画に移り、沈周、文徴明、董其昌やこれらの一派が活躍することになる。 辺文進(生没年不明) - 字は景昭。福建沙県の人(本貫は甘粛)。永楽年間(1403 - 1433年)の宮廷画家で武英殿待詔の地位にあった。工筆重彩の花鳥画をよくした。 李在(生没年不明) - 福建莆田の人。宣徳年間(1426 - 1435年)の宮廷画家。仁智殿待詔の地位にあった。山水をよくした。日本の雪舟が明に滞在した際に交流があった。 周文靖(生没年不明) - 福建莆田の人。宣徳年間(1426 - 1435年)の宮廷画家。占師として宮廷に入り、後に画才が認められて画家となった。作品には宮廷画家であることを意味する「日近清光」印を有するものがある。 孫龍(生没年不明) - 江蘇毗陵(常州)の人。宣徳年間(1426 - 1435年)の宮廷画家。没骨画法の花鳥をよくした。なお、同時代に孫隆という画家が存在し、孫龍・孫隆は同一人とする説と、別人が音通のため混同されたとする説とがある。 林良(生没年不明) - 広東南海の人。景泰・天順・成化年間(1450 - 1487年)の宮廷画家。浙派風の写意の水墨花鳥をよくした。 倪端(活動期1435 - 1480年) - 宣徳・成化年間の宮廷画家。成化16年(1480年)に錦衣衛指揮同知の地位にあったことが知られる。 呂紀(1477 - ?年) - 上海同四明(浙江寧波)の人。弘治年間(1488 - 1505年)の宮廷画家。職位は錦衣衛指揮に至った。装飾的画面の花鳥をよくした。 呂文英(生没年不明) - 浙江括蒼の人。人物画をよくした。 王諤(生没年不明) - 浙江奉化の人。弘治・正徳・嘉靖年間の宮廷画家。職位は錦衣指揮に至った。 朱端(生没年不明) - 浙江海塩の人。弘治・正徳年間(1488 - 1521年)の宮廷画家。職位は錦衣指揮に至った。 陳子和(生没年不明) - 福建浦城の人。山水、人物、花鳥のいずれもよくした。 林良『秋鷹図』(台北故宮博物院) 呂紀『秋渚水禽図』(台北故宮博物院) 李在『琴高乗鯉図』(上海博物館) 朱端『煙江遠眺図』(北京故宮博物院) 周文靖『古木寒鴉図』(上海博物館) 王諤『渓橋訪友図』(台北故宮博物院) 辺文進『雪梅双鶴図』(広東博物館) 明宣徳帝『猟犬図』(アーサー・M・サックラー美術館) 呂紀『四季花鳥図(冬)』(東京国立博物館)
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