明代から清代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/20 19:46 UTC 版)
中国の明代の統治政策は、各地域の首長の世襲支配権を認めて土司に任命して間接統治をする政策をとっていたが、次第に現地との乖離が大きくなり、ミャオ族の反乱(英語版)も多発するようになった。清代には貴州省などミャオ族地区への漢族の移住が増え、中央が地方官の「流官」を任命する直接支配に展開した。これを改土帰流政策(土司=少数民族首長支配を改め、流官=中央任命の地方官支配に帰すこと)という。同化政策や清朝の増税に抵抗して、ミャオ族は三次(1735年 - 1738年:ミャオ族の反乱 (1735年–1736年)(英語版)、1795年 - 1806年:ミャオ族の反乱 (1795年–1806年)(英語版)、1854年 - 1873年:咸同起義(英語版))にわたる反乱を起こした。特に張秀眉が指導した最後の反乱は大規模で、咸同起義(英語版)(かんどうきぎ)と呼ばれ、ミャオ族人口の三分の一だけが生き残ったともいう。その後は、多くの漢族商人が現地にはいり、林業を中心とした商業網を確立し、ミャオ族をはじめとする現地の人々は抑圧されることになった。清代末期の1902年から1903年にかけて鳥居龍蔵が現地にはいり、貴州省のミャオ族と雲南省のイ族の現地調査を行って、緻密な記録『苗族調査報告』(1907年)を残し、当時の状況を克明に伝えている。
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