明仁親王の立太子の礼とは? わかりやすく解説

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明仁親王(後の第125代天皇、上皇)の立太子の礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 15:32 UTC 版)

立太子の礼」の記事における「明仁親王(後の第125代天皇上皇)の立太子の礼」の解説

昭和27年1952年11月10日継宮明仁親王成年式同時に行われた同年4月28日日本国との平和条約発効による主権回復GHQ/SCAP占領統治終了)後最初国事であり、国民的な盛り上がり見せた当日立太子の礼に向かう明仁親王東宮仮御所から皇居までの移動は、馬車でのパレードが行われ、沿道には多数市民詰めかけた。 11月10日 親告の儀 昭和天皇香淳皇后立太子の礼を行うことを神前報告。 なお、これ以前側近による代拝だった。 成年式 / 加冠の儀仮宮殿:表北の間) 皇族加え吉田茂首相第4次吉田内閣)を始め三権の長都道府県知事代理含む)、各国大使300名が出席国歌「君が代」演奏とともに黄櫨染御袍昭和天皇十二単略装香淳皇后入場続いて未成年正装である闕腋袍空頂黒幘被った明仁親王入場加冠役侍従が、明仁親王空頂黒幘外し燕尾纓の付いた冠を被せたその後明仁親王成年挨拶をし、吉田首相寿詞述べ10時16分に儀式終了したこの後黄丹色の縫腋袍着替えた明仁親王報道用の写真撮影が行われた。 立太子宣制の儀仮宮殿:表北の間) 10時45分加冠の儀と同様の姿で入場開始11時5分、宣明役の田島道治宮内庁長官が「宣明」を読み上げ明仁親王皇太子であることを宣言皇太子明仁親王両親昭和天皇香淳皇后拝礼し、吉田首相寿詞述べて儀式終了した壺切御剣伝進の儀仮宮殿:表拝謁の間→奥一の間) 昭和天皇壺切御剣三谷隆信侍従長通じて別室待機する皇太子明仁親王に伝進した。 皇太子明仁親王宮中三殿拝礼し、成年立太子奉告した。 朝見の儀仮宮殿:表西の間) 洋装行われた皇太子明仁親王昭和天皇感謝述べ、順に酒を口にする。 勲章親授の儀仮宮殿:表拝謁の間) 昭和天皇から皇太子明仁親王に、大勲位菊花大綬章親授された。 この後皇太子明仁親王11月18日伊勢神宮を、19日畝傍陵を、20日多摩御陵それぞれ拝礼し、立太子礼終了報告した一般国民動き 当時日本国民にとって、復興希望象徴であった明仁親王立太子は、大きな祝福持って受け止められ自治体民間それぞれ多数祝賀行事催された。また、式典最中に「当時衆議院議長であった大野伴睦感激のあまり号泣し当時吉田茂首相も涙で寿詞途切れがちであった」という。 翌11日皇居一般参賀が行われ、合計5回20万人上もの国民皇太子明仁親王祝福した。特に、第1回目参賀では、国民から自然発生的に国歌「君が代」合唱巻き起こった9日発表された、皇太子長期外遊英国エリザベス2世女王戴冠式への参列など)への期待が高まるとともに成年機に配偶者となる皇太子妃が誰になるか、"お妃候補"にも世論大きな関心高まっていった。

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