明仁親王(後の第125代天皇、上皇)の立太子の礼
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昭和27年(1952年)11月10日、継宮明仁親王の成年式と同時に行われた。同年4月28日の日本国との平和条約発効による主権回復(GHQ/SCAP被占領統治終了)後最初の国事であり、国民的な盛り上がりを見せた。 当日、立太子の礼に向かう明仁親王の東宮仮御所から皇居までの移動は、馬車でのパレードが行われ、沿道には多数の市民が詰めかけた。 11月10日 親告の儀 昭和天皇と香淳皇后が立太子の礼を行うことを神前に報告。 なお、これ以前は側近による代拝だった。 成年式 / 加冠の儀(仮宮殿:表北の間) 皇族に加え、吉田茂首相(第4次吉田内閣)を始め三権の長、都道府県知事(代理含む)、各国大使ら300名が出席。 国歌「君が代」の演奏とともに、黄櫨染御袍の昭和天皇、十二単略装の香淳皇后が入場。続いて、未成年の正装である闕腋袍に空頂黒幘を被った明仁親王が入場。加冠役の侍従が、明仁親王の空頂黒幘を外し燕尾纓の付いた冠を被せた。その後、明仁親王が成年の挨拶をし、吉田首相が寿詞を述べ、10時16分に儀式は終了した。この後、黄丹色の縫腋袍に着替えた明仁親王報道用の写真撮影が行われた。 立太子宣制の儀(仮宮殿:表北の間) 10時45分、加冠の儀と同様の姿で入場を開始。11時5分、宣明役の田島道治宮内庁長官が「宣明」を読み上げ、明仁親王が皇太子であることを宣言。皇太子明仁親王は両親の昭和天皇と香淳皇后に拝礼し、吉田首相が寿詞を述べて、儀式は終了した。 壺切御剣伝進の儀(仮宮殿:表拝謁の間→奥一の間) 昭和天皇が壺切御剣を三谷隆信侍従長を通じて、別室に待機する皇太子明仁親王に伝進した。 皇太子明仁親王は宮中三殿を拝礼し、成年と立太子を奉告した。 朝見の儀(仮宮殿:表西の間) 洋装で行われた。皇太子明仁親王が昭和天皇に感謝を述べ、順に酒を口にする。 勲章親授の儀(仮宮殿:表拝謁の間) 昭和天皇から皇太子明仁親王に、大勲位菊花大綬章が親授された。 この後、皇太子明仁親王は11月18日に伊勢神宮を、19日に畝傍陵を、20日に多摩御陵をそれぞれ拝礼し、立太子礼の終了を報告した。 一般国民の動き 当時の日本国民にとって、復興と希望の象徴であった明仁親王の立太子は、大きな祝福を持って受け止められ、自治体と民間それぞれで多数の祝賀行事が催された。また、式典の最中に「当時の衆議院議長であった大野伴睦は感激のあまり号泣し、当時の吉田茂首相も涙で寿詞が途切れがちであった」という。 翌11日、皇居で一般参賀が行われ、合計5回20万人以上もの国民が皇太子明仁親王を祝福した。特に、第1回目の参賀では、国民から自然発生的に国歌「君が代」の合唱が巻き起こった。 9日に発表された、皇太子の長期外遊(英国エリザベス2世女王戴冠式への参列など)への期待が高まるとともに、成年を機に、配偶者となる皇太子妃が誰になるか、"お妃候補"にも世論の大きな関心が高まっていった。
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