戦後の変革と「皇后の和服姿」
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「香淳皇后」の記事における「戦後の変革と「皇后の和服姿」」の解説
1945年(昭和20年)秋、疎開していた皇子女たち5人が帰京し、家族団欒の時間を持つことができるようになった。翌1946年(昭和21年)2月から、昭和天皇は沖縄県を除く日本各地を巡幸した(昭和天皇の戦後巡幸)が、皇后は当初同伴しなかった。皇后は、単独で近郊の行啓を再開し、9月4日に初めて同伴した。 同年10月17日、継宮の家庭教師としてエリザベス・ヴァイニングが来日し、天皇、皇后、そして継宮に初めて対面した。後に皇后自身もヴァイニング夫人から英語を習うようになった。 1947年(昭和22年)1月16日、皇室典範(現行)が公布され、5月3日、日本国憲法と同日に施行された。10月14日、香淳皇后の実家である久邇宮家や成子内親王の婚家である東久邇宮家も含む11宮家51人が、皇室典範の規定により臣籍降下(皇籍離脱)した。 皇室の在り方が一変した後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする夫・昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年(昭和22年)の日本赤十字社名誉総裁就任をはじめとして、1952年(昭和27年)以降の全国戦没者追悼式、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会式、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会式、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例である。靖国神社、護国神社への天皇親拝にもたびたび同行している。 また皇女たちの結婚にあたり、長女成子内親王の例から、娘たちの意思を尊重するためのお見合いやデートを勧めた。第二皇女の孝宮和子内親王は1950年(昭和25年)5月20日に鷹司平通(旧公爵家の嫡男)に降嫁した。この時、天皇・皇后、そして皇太后は披露宴にも参列した。 1951年(昭和26年)5月17日、義母・貞明皇后が崩御した。皇后は、この急な悲しみを『母宮追慕の日記』として綴った。 1952年(昭和27年)元日、初めて「天皇ご一家」としての写真が公表された。10月10日、第四皇女順宮厚子内親王が池田隆政(旧侯爵家の嫡男)へ降嫁した。順宮の婚礼に参列する際、香淳皇后は初めて公の場で和服を着用した。このとき皇后が着用したのは、金茶色に自身でデザインした鳩の図案であった。戦後、天皇の退位論や戦争責任論が起こる中、皇后を親しみやすさのシンボルとする必要性が生じていた。一般国民が和服を多く着用していた時代であり、「私たちと同じ存在」として好意的に受け止められた。 同年には、田中千代が皇后の衣装アドバイザーとなっていた。皇后の宮中服姿は評判が悪かったが、英国王室のように最先端のデザインを取り入れることは予算的に困難であったため、和服を着用するに至った。こうした金銭的状況による質素な皇室というイメージも、高度成長期前の日本国内では、皇室の身近さのアピールに有効であった。ただし、皇后の持つ「7人の子を持つ母」のイメージは当時としても少し古いものであり、後のミッチー・ブームのような熱狂的な支持を受けるには至らなかった。 また、同年11月10日には継宮明仁親王の立太子の礼が挙行され、日本国との平和条約発効に伴う主権回復(GHQ/SCAP被占領統治終了)後最初の国事として国民的な祝賀を受けた。 皇后の和服着用に先立つ1948年(昭和23年)元旦及び1月2日、「国民参賀」が行われるようになり、主権回復後は新年祝賀の儀が国事とされた。1953年(昭和26年)からは天皇・皇后がバルコニーに立つことが予告されるようになった。こうして1953年以降、元日の新年祝賀の儀及び「プライベートなご一家写真」の公表、1月2日の一般参賀における「パブリックな現前性」という、二重の表象性が確立された。その初回である1953年(昭和28年)1月2日の「一般参賀」に皇后は和服で現れ、「民族性と伝統を強調する」メッセージ性を発信した。 『主婦の友』1955年1月号から、小山いと子による実名小説『皇后さま』が連載され、人間らしい「良さま」や「裕仁さま」が読者に好意的に受け止められた。 天皇と宮中服姿の皇后(1946年撮影、皇居前広場での「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」にて) 三女の孝宮和子内親王と鷹司平通の婚礼(1950年5月20日)
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