戦後の堀江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:11 UTC 版)
堀江は大阪大空襲で灰燼に帰したものの、再び材木業や家具販売業、堀江遊廓(赤線)などが復興した。しかし時代は水運から陸運へと変わり、堀江をめぐる川は西道頓堀川と木津川を除きすべて高度成長期に埋め立てられた。渋滞の激しく土地の狭い市内から材木業は郊外へと移転した。堀江遊廓も廃止されその面影は雑居ビルや駐車場となり消えていった。 家具屋街として知られた立花通りは高度成長期、とりわけ団塊の世代の結婚適齢期と重なった1970年代には空前の繁栄を見たが、次第に市民の郊外への転居、郊外の大型家具店の登場で廃れ始め、1990年代には人通りがほとんどないまでに寂れてしまった。
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