戦後の売春・麻薬街時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 07:29 UTC 版)
戦前から大岡川の船運を活用した問屋街として栄えた黄金町であったが、終戦後は高架下にバラック小屋の住居が集まり、次第に飲食店に変わっていった。そんな店の中から女性が客を取る店、いわゆる「ちょんの間」が現れ、いつしか関東でも屈指の「青線地帯」として知られるようになる。福富町や長者町方面は「戦時住区」という指定地区になり24時間中に立ち退き命令が出た。その命令で移り住んできた人は福富町、長者町、住吉町の人達で、初音町の広い通りには住吉町界隈の人、日ノ出町には長者町から来た人、赤門には福富町の人がそれぞれ移ってきた。そのため今までのお屋敷町はガラっと変わってしまった。とにかく空いている所に皆転入をした。時が時なので地主も入ってしまった人に立ち退けとは言えず、結局、入った人達が後に借りることになった。 日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸にはバラック群がずらりと建ち並び(大岡川スラム)、さらにはしけを転用した不法の水上ホテルが28隻も浮いていた。この船は1950年代半ばまで目撃されており、映画『密航0ライン』(鈴木清順・監督 日活)にも登場している。1954年に強制撤去が行なわれ、地上へと移った。 「青線地帯」「大岡川スラム」で悪名をはせる一方、戦後の黄金町はヒロポンやヘロインといった麻薬密売の温床でもあった。特に昭和20年代は、大岡川を境界に密売組織による縄張り争いが頻発した。警察官の巡回すら身の危険を感じて出来ない程荒んだ環境であったという。 特殊飲食店(外観や届け出は飲食店や旅館を装っているが、実際は売春を目的とした店)街は1958年(昭和33年)の売春防止法施行後、一旦大人しくなったが、その間隙を縫って麻薬の売買が盛んになった。その臨界点は1962年(昭和37年)7月6日で、警察の取締で供給源を断たれた200人あまりの中毒者が路上に飛び出し、禁断症状を起こした。この騒ぎは社会問題になり、街灯の整備やバラックの撤去、麻薬の更生施設の設置などの施策が行われ、麻薬禍は過去のものとなった。 1960年代(昭和40年代)までは大岡川の水を利用して多くの捺染工場が立ち並び、横浜名産のスカーフ等を川で染めたため赤や黄色や青のインクの色に染まり常にインク臭かった。このため当時の大岡川で子供は遊ぶどころか敬遠していた。高度経済成長期になると、工場排水の垂れ流しや生活排水によって川からは魚が姿を消しどぶ川になった。その後、下水道の整備や市民の川の環境保全活動により、水質が改善されたため、現在は魚、鳥など多くの生き物を見ることができる。
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