戦後の国際劇場レビュー
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「松竹歌劇団」の記事における「戦後の国際劇場レビュー」の解説
終戦後の10月、松竹舞踊隊は30名の団員を擁して「松竹歌劇団」として再出発。同時に新団員の募集も行い、11月には戦後第1期生となる34名が新入団した。翌1946年より、水の江などかつての関係者が所属する劇団との合同という形をとりながら公演を再開し、7月には戦後初の単独公演を行い、立ち直りへ向かった。1947年秋には東京大空襲で損壊していた国際劇場が修築され、復興記念公演を行った。1948年にはかつて毎年恒例となっていた『東京踊り』を復活させた。1949年ごろからはその人気が再燃、ブロマイド販売の最大手として知られた浅草マルベル堂においては、川路龍子、小月冴子、曙ゆりといったスターの品が100万枚以上を売り上げた。 1950年代にはいると国際劇場の巨大さと舞台機構を活かした演出法が編み出されていき、戦前とは異なる人海戦術を駆使した大規模ショーとしての松竹レビューが定着。国際劇場は観光バスが大挙して訪れる浅草の新名所となった。1957年には、その歴史を通じて最多となる265万人の観客動員を記録した。 数々の「チーム」が設立されたのもこの頃の特徴である。1951年には装置転換の際に起こる間延びを解決するため、特にスタイルの良い40名を選抜したラインダンスチーム「アトミック・ガールズ」を創設。1956年には女性のグラマラスさを前面に押し出したチーム「スリー・パールズ」を刷新し、「エイト・ピーチェス」が創設された。エイト・ピーチェスはダンス技術に優れた者を選抜した8人のチームで、官能的なダンスを売り物とし、「所属することが栄誉」とされる名チームとなった。アトミック・ガールズとエイト・ピーチェスは1956年に芸術祭奨励賞(大衆芸能部門)を受けている。機構面では1959年の『夏のおどり』において、地下に水槽を設置し、舞台後方に6段落としの瀑布を創出したことが特筆される。また、屋台崩しなども得意演出であった。
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