戦後の奉仕活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 02:54 UTC 版)
戦後、北海道富良野町(後の富良野市)の名取マサにより、戦災孤児を日本の女性たちが救うべきとの投稿が新聞紙上に掲載された。佐野はこれに強く共感し、北海道美深町の松浦カツら、北海道内で婦人団体のリーダーとして活躍していた女性たちに呼びかけ、戦災孤児救済のための団体として、北海道婦人共立愛子会を設立した。この愛子会による公的機関への陳情、募金活動の末、富良野町に養育施設「国の子寮」が設立された。一方では私生活は決して楽ではないながらも、その中から私財を投げ打ち、苦学生に奨学金を送り続けた。 また、戦後には女性たちの社会進出が強く叫ばれていたこともあって、佐野は戦前の実績と知名度により、1947年(昭和22年)に旭川婦人会の会長となった。1954年(昭和29年)には、旭川市内の地域婦人団体結成の促進と各婦人団体間の連携のために作られた団体である婦人団体連絡協議会の会長となり、佐野の同会での働きによって1959年(昭和34年)には旭川市内に約30の婦人団体が誕生した。 1952年(昭和27年)には、戦争未亡人・戦災孤児をはじめとする生活苦の母子家庭への対策として母子相談員制度が制定され、各地に母子相談員が置かれるようになり、佐野は翌1953年(昭和28年)に北海道知事により旭川市の初代の母子相談員に任命された。この職務において佐野は、生活相談、仕事の斡旋といった具体的な相談事は手際よく解決していた。一方で子供の教育、人間関係、職場、セクハラなどの様々な悩み事への対応も必要であった。しかし、当時はまだそれらへの解決法が確立されておらず、相談員は悩みを聞いて励ますしかない時代であり、佐野はそのようなカウンセラーのような仕事は不得手としていた。役所機構とも馬が合わなかったこともあり、3年後に相談員を辞した。売春防止法成立翌年の1957年(昭和32年)には女性たちの保護・更生のための婦人相談員に任命されたが、これも翌年に辞任した。 戦後の復興とともに青少年の非行化が問題となっていた矢先、佐野は大阪市の「みおつくしの鐘」の存在を知った。これは少年の非行防止のため、夜遅くまで歓楽街で遊ぶ少年たちに優しい鐘の音を聞かせ、親の待つ家庭を思い起こさせることを目的に設置されたものである。佐野はこれに強く共感し、旭川にも同様のものを設置すべく、旭川市内の婦人団体に呼び掛けた。これにより「母の鐘」設立期成会が結成され、一般市民からも大きな協力が得られ、寄付により目標額を上回る約90万円が集められた。この寄付をもとに「母の鐘」が完成し、1956年(昭和31年)の母の日である5月12日、初めて鐘の音が響いた。この成功には、NHK旭川放送局の局員の協力や、一般公募で選ばれた「母の鐘」の歌がこれを盛り上げるなど、旭川全市をあげての協力が大きかった。また、この鐘の成功が北海道内各地を刺激したことで、全道40か所に同様の趣旨の鐘が次々に設置されることになった。 1956年(昭和31年)には、佐野は保護司に任命された。この保護司の職務、特に刑余者の援助活動は、佐野が戦後の社会運動の中で最も力を入れたものである。佐野は刑務所の特殊面接員を担当しているうちに、犯罪や非行に陥った人々が不幸な境遇のために更生の困難なことを知り、そうした人々を母親としての愛情で救おうと考え、婦人保護司、保護司婦人、元国防婦人会会員、元愛国婦人会会員らに呼びかけ、1957年(昭和32年)、旭川更生婦人会を結成。刑務所の出所者たちに布団や衣類を送り、1人1人面接して事情を聞き、旅費のない者、病気で静養の必要な者には金銭的援助をするなど、個々の事情に応じた細かな対応を心掛けた。この旭川更生婦人会は初めこそ会費100円、会員約200名であったが、佐野の強い呼び掛けにより会員は増え続け、1966年(昭和41年)には会員約4000人にのぼる大団体となった。 このほかにも多数の公職、団体の理事、会長などを歴任した。後の文献で確認できる主なものだけでも、司法保護委員、刑務所篤志面接員、社会福祉協議会婦人部長、家事調停委員、更生保護婦人会長、青少年問題協議会委員、社会教育委員、日本放送協会北海道地方放送番組審議会委員など30以上にのぼり、その大半は社会福祉関係の奉仕的活動である。佐野はこうした数々の職務に推されることを拒まず、むしろ望んでおり、周囲もそうした佐野に頼っていた。 戦後の佐野の活動は、戦前を上回る目覚ましいものであった。出身地から離れた町で暮らしている上、すでに養女も結婚しており、身内のほとんどいない土地で親族のしがらみや家庭の束縛から解放されていることで、佐野は思うがままに生きることができたとも考えられている。戦中同様に戦後の活動は矯風会から離れたものであったが、弱者に目を向けた活動は戦前同様であった。 こうした業績により昭和20年代から昭和40年代にかけ、1957年の法務大臣表彰や1966年の厚生大臣感謝状を含め、多くの団体や公的機関から表彰を受けた。その大半は、刑余者の更生保護に尽くしたことによるものである。1965年(昭和40年)には社会福祉に対する奉仕と実績を認められ、勲五等宝冠章を受章した。
※この「戦後の奉仕活動」の解説は、「佐野文子」の解説の一部です。
「戦後の奉仕活動」を含む「佐野文子」の記事については、「佐野文子」の概要を参照ください。
- 戦後の奉仕活動のページへのリンク