戦後の学園経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 08:41 UTC 版)
戦後、社会福祉事業法に基づく社会福祉法人に移行し、「社会福祉法人滝乃川学園」が認可・設立され、戦後の学園経営は、石井亮一の実姪を妻とし、筆子の実甥にあたる関重広や、筆子の縁戚である高木逸磨が担うことになる。また、日本聖公会の教団を挙げての支援も大きく、教団の有力幹部であった立教大学総長や、聖路加国際病院長も、経営陣に参画し、学園の維持に貢献した。 戦後の経営上の課題は、知的障害児対象の施設であるため、支援が終了した園児の事後処遇の問題があった。初代学園長の石井亮一も、晩年、この問題を気にかけていた。学園では、児童施設のまま、事後指導部を設置し、この問題に対処してきたが、1970年に至り、成人部が認可、開設され、生涯にわたった一貫した支援体制を確立した。 また、石井は、知的障害児者教育・福祉の事業には、医療的支援が不可欠と考え、学園も常勤医による診療体制をとっていた。甥の石井雄一を九州帝国大学医学部に学ばせ、医務主任に任用し、後継者として育てていたのもそのためであった。しかし、雄一が若くして死去し、後任の常勤医師も、後年に辞任し、学園の財政上の問題や、戦時の医師の応召による医師不足といった事情もあって、既に戦前の段階で常勤医体制がとれなくなっていた。1960年に至り、当時の学園経営陣は、創立70周年記念事業として、石井の悲願であった、付設精神病院の設置構想を明らかにした。しかし、多額の開設資金と運営コストを要するこの構想は、ついには実現をみなかった。 関理事長・高木学園長の経営体制が終焉すると、立教大学から派遣された宮崎申郎が第7代理事長および第8代学園長に就任したが、宮崎自身、官僚出身の大学教授であり、理事長職や学園長職が名誉職化したことに加え、在任期間が21年間にも及んだことから、現場職員を中心とした運営となり、学園の経営は停滞期に入った。
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