戦後の密貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 08:58 UTC 版)
1946年の末、石垣島に係留されている18トンの船を買い開幸丸1号とした。最初は海人草を素潜りで採っていた。香港から南東300キロの東沙諸島・プラタス島が最良であり、同島にいた台湾の海軍の許可をもらい折半した。本土においてそれを売り、莫大な利益を得た。違法操業であったため、1947年国府軍から銃撃を受ける。開幸丸2号は新造船で100馬力の高速船を購入。9月、糸満で逮捕される。 1948年春、石垣島登野城に家を新築。同所に精米所も作る。秋、糸満に家を新築。1949年10月頃、本部(もとぶ)の谷茶に現る。1950年、開幸丸と幸進精米所の広告が出る。1951年4月に夏子は逮捕される。理由ははっきりしないが、作家奥野修司は軍需物資の輸送か、政治犯の輸送ではないかと推定している。しかし、裁判では無罪であった。夏子は留置場を出てすぐ、幸陽商事を立ちあげる。この会社は沖縄では小麦の扱い高は最高であったが、社長には浦原一郎を据えた。夏子の没後、幸陽商事は異母兄弟亀次郎が経営権を引き継いだが、立て直せなかった。 1950年から1952年には、密貿船の記事によると、沖縄から薬きょう、銅線などを運び、これを香港で、食料品(白砂糖、コメ、メリケン粉、飴玉、菓子、ミルク)、日用雑貨(石鹸、電球、洋服生地、ジャンパー、子供シャツ、ローソク)、医薬品(ストレプトマイシンやペニシリンなどの抗生物質)と交換していた。1950年11月、政府管理貿易に変わって民間貿易が再開され、密貿易はなくなっていった。 1953年9月、夏子は東京大学医学部附属病院に入院。頭部に癌ができていた。チャーター機で沖縄へ帰った直後の1954年8月8日に死去。
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