戦後の宇垣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:48 UTC 版)
昭和20年(1945年)、太平洋戦争終結の後、公職追放。 東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政・若槻礼次郎・岡田啓介と並んで宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。 昭和27年(1952年)に追放解除された。昭和28年(1953年)4月に行われた第3回参院選挙で全国区から立候補し、51万票を集めトップ当選した。当選圏は約15万票だったが、宇垣は最高点51万3765票を集めて当選した。選挙運動中に倒れ、ほとんど議員活動はできなかった。山田風太郎によると「打ち合わせ中の火鉢の焚き過ぎによる一酸化炭素中毒」という。昭和31年(1956年)に静岡県伊豆長岡町(現在の伊豆の国市長岡)の松籟荘で議員在職のまま死亡した。墓所は多磨霊園。宇垣の87歳は、平成28年(2016年)現在、現職の参議院議員として最高齢タイ記録である(もう1人は市川房枝、こちらも議員在職のまま死亡)。
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