戦後の学会活動、研究開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 07:09 UTC 版)
戦後の本間の活躍は次のように要約される。 土木学会に新設された海岸工学委員会の初代委員長を昭和28年から42年までの14年間にわたって務め、日本の海岸工学を揺籃期から壮年期へと急速な発展に貢献した。 海岸工学を総合科学として位置付け、土木工学以外にひろく地理学、地質学、海洋物理学、気象学、水産学等専門家の参加を積極的に推進し、日本独特の海岸工学づくりを推進した。 他の学界に先立って海外との学術交流を積極的に推進し、自らも世界中の指導的研究者や研究機関との交流を深めたほか、研究論文の英文誌 Coastal Engineering in Japan を創刊して日本の研究成果を海外に紹介し、また日本でアジア最初の国際海岸工学会議を企画、その組織委員長をつとめた。 現地での観測と実測を基にした経験科学を基本として、海岸工学の研究を推進した。例えば、東海村海岸における日本初の原子力発電所の取水口設計の基礎資料取得のための現地調査指導や、新潟西海岸の海岸侵食研究の膨大な資料の解析を指導が好例とされる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本で海岸工学が発足してからわずか8年後の時点で、現地観測技術に関しては日本は米国に先んじていたとも言われる[誰によって?]。 1953年(昭和28年)、本間は京都大学の石原籐次郎とともに、米国ミネソタで開催された国際水理学会に出席し、これを機に米国全土の有力大学や研究機関を訪問し、同世代の世界のリーダー達と親交を結んだ。この長期の旅行は本間に大きな刺激を与えた。帰国後、本間は当時勃興しつつあった新しい研究分野である「海岸工学」の研究活動を若手の堀川清司(当時東京大学講師・助教授、後に東京大学教授・埼玉大学学長・武蔵工業大学(現・東京都市大学)学長・日本学士院会員)や韓国からの留学生であったChole J. Sonu(鮮于 澈、当時大学院生、後に米国ルイジアナ大学教授・Techmarine社長)を指導して開始した。理論や室内実験のみではなく、現地調査や観測を積極的に行った。また、上述の如く、土木学会に海岸工学研究委員会を立ち上げ、永く委員長を務めた。 東京大学における最終講義は「水理学研究の回顧」(本間 仁博士論文撰集)に採録されている。
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