戦後の小学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/13 01:08 UTC 版)
「大阪市立晴明丘小学校」の記事における「戦後の小学校」の解説
終戦に伴って1945年10月に疎開先から児童が戻り、授業が再開された。1947年に実施された学制改革により、大阪市立晴明丘小学校へと改称している。 阿倍野区は空襲被害が他区と比較して相対的に少なかったため、終戦直後には転入人口が増加している。また第一次ベビーブーム世代が就学期を迎えたことも加わり、1950年代には学校規模が過大となった。在籍児童数は1959年にピークの2535名となり、教室が足りなくなったために二部授業もおこなわれた。 1953年には西運動場を校地として加えている。学校西隣の土地は、大阪府が団地として開発する予定だった。しかし当時の児童数増加や学校過密化の状況から「学校敷地拡張が必要」として学校が大阪府に請願をおこない、学校拡張用地として取得することになった。 晴明丘小学校では1954年にプールを設置した。学校記念誌によると、大阪市立小学校としては最初にプールを設置した小学校と紹介されている。 1969年には地域住民の要望により、西成区天神ノ森を従来の大阪市立岸里小学校校区から晴明丘小学校校区へと編入している。
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