戦後の工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:45 UTC 版)
1946年(昭和21年)4月に再着工した。しかし再び工事継続が困難な情勢となり、1948年(昭和23年)3月に再中止されて、要員は志免鉱業所などへ配置転換された。1950年(昭和25年)5月に3度目の着手となった。再開後に点検したところ、覆工の亀裂の進行が激しかったため、全体に改築工事が行われ、1953年(昭和28年)3月に、着工から15年をかけて深坂トンネルが完成した。直轄工事部隊は、深坂トンネルの竣工前から竣工後にかけて2段階にわけて倶利伽羅トンネルへと転出していった。深坂トンネル工事は、丹那トンネルに匹敵する難工事であったとして、疋田工事区は1953年(昭和28年)3月28日に国鉄総裁表彰を受けた。しかし、1948年(昭和23年)3月に疋田工事区で発生した火災により、工事記録の多くを焼失したため、深坂トンネルの工事誌は発行することができなかった。 新線は戦前の工事着手当初から電気運転を前提として工事しており、また坑口から100メートルまでは砂利道床にしつつもそれより奥はコンクリート道床を採用する方針であった。しかし戦後になり、再び電化、道床コンクリート、トンネル内列車交換設備について必要性が長々と議論されることになった。道床コンクリートについては1955年(昭和30年)9月に施工が決定し、続いて11月には電化調査委員会により米原-富山間は直流電化が決定され、これにより深坂トンネルの供用開始も決まった。ちょうどこの頃、フランスで開発された交流電化方式について、国鉄は仙山線で実験を行っていたが、北陸本線で初めて本格的に実施することになり、1956年(昭和31年)4月になって電化方式は交流電化に変更された。 道床コンクリートについては、坑口から75メートルの区間を除いた5,020メートルにわたって施工し、1957年(昭和32年)3月に竣工した。また交流電化に伴い、トンネルの建築限界が問題となった。当時まだ交流電化における建築限界は定められていなかったが、深坂トンネルについては特認で5メートル20を採用することになり、道床コンクリートの厚さを調整することでこの値を実現した。1959年(昭和34年)になり、交流電化区間の建築限界は5メートル35と定められた。 トンネル中間付近に信号場を設けて線路容量を増大させる検討も行われたが、信号場を設けて列車本数を増大させると保線作業の限界にあたるとして、信号場設置は見送られた。またトンネルでの牽引機関車をどうするか決定するため、排煙装置の研究と仙山トンネルにおける国鉄DD50形ディーゼル機関車の試験運行を行った。排煙装置については、送風速度に応じて列車運行本数が左右され、線路容量を制約することが判明し、蒸気機関車を新線に運転することは不可能と結論された。またディーゼル機関車の運行についても、保線作業環境改善のためにトンネル内に送風設備を設ける必要があるという結論となった。他に設備として、トンネル坑門入口上に貯水槽を設け、そこから鉄管を出口まで通して、約33メートル間隔で水栓が設けられており、砂撒き装置の砂や汚物などを洗い流せるような洗浄装置となっている。
※この「戦後の工事」の解説は、「深坂トンネル」の解説の一部です。
「戦後の工事」を含む「深坂トンネル」の記事については、「深坂トンネル」の概要を参照ください。
- 戦後の工事のページへのリンク