戦後の年月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 17:04 UTC 版)
「ローザ・エスケナージ」の記事における「戦後の年月」の解説
彼女の長い経歴にわたってローザはコロンビア レコードのバシリス・トウンバカリスだけでなく、最近オデオン/パルロフォンを創設したミノス・マツァスとも良好な関係を築いてきた。このおかげで彼女はマリカ・ニノウやステラ・ハスキルを含む多くの他の有名なアーティストの経歴を推進することができた。彼女は彼らを「アリロヴォイチア」音楽家組合へ紹介し、まもなく彼らはバシリス・ツィツァニスとレコーディングできた。 戦後、1949年にローザはパトラスへ戻り新しい身分証明を取得した。彼女はそこでいくつかのコンサートを開いたが、彼女の人生に於ける本当の転換点となったのは自分より30歳ほども年下の若い警察官とであったことだ。年齢差にも拘わらず、二人は恋に落ち、その関係はローザのその後の生涯にわたって何らかの形で続くことになる。 ローザはバルカン半島じゅうを広くツアーしていたが、米国への初めてのツアーを実施したのは1952年になってからだ。そこではギリシャとトルコの離散家族達のために出演した。この演奏旅行はニューヨーク市のパルテノン・レストラン・アンド・バーが後援し、数ヶ月続いた。 これはいくつもの海外への音楽ツアーの最初に過ぎなかった。1955年、アルバニアの興行主バルカン・レコード会社のアブデン・レスコビクが彼女をイスタンブールで出演しレコーディングするように招いた。そこは彼女が生まれた都市だ。彼女は最終的にレスコビクのために40曲をレコーディングし、5000ドルくらいを受け取った。これは比較的わずかな金額であったが、彼女は後にその時の出演料とチップはそれの10倍はもらえたはずだと主張している。 イスタンブールの後まもなく、彼女は米国へのさらに2つのツアーへ乗り出し、ニューヨーク、デトロイト、そしてシカゴで出演した。米国への2回目の旅行の間、1958年の7月5日、彼女はフランク・アレクサンダーと結婚した。結婚式は名前だけのものだったようだ。これは彼女が米国で働く許可を得るために必要だったからだ。とはいえ、エスケナージはアメリカ合衆国を愛し、彼女の別の恋人クリストス・フィリポコポウロスのためでなければそこへ移住していたことだろう。彼女は彼と過ごすために1959年にアテネへ戻った。彼女は米国で稼いだお金で二人のためにアテネに大きな家を買い、さらに2台のトラックと馬も買った。彼女とフィリパコポウロスはその後生涯そこで住むことになった。
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