戦後の建設ラッシュとナイター設備の導入
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「野球場」の記事における「戦後の建設ラッシュとナイター設備の導入」の解説
戦争終了の翌年、1946年にはペナントレースも学生野球も再開された。球場によってはアメリカ軍に接収されたところもあったが、徐々に解除されていった。 その後GHQの後押しもあり野球場が各地に造られていった。プロ野球チームの親会社によって中日スタヂアム(1948年)、大阪スタヂアム(1950年)、駒澤野球場(1953年)などが建設された。公営の球場も平和台野球場(1949年)、県営宮城球場(1950年)、川崎球場(1952年)、広島市民球場(1957年)などがこの時期に建設されている。これら以外にも、国民体育大会に対応する競技施設の整備を目的とするなどして、全国各地で公営の野球場が順次整備されていった。 この時期に建設された球場は、終戦後まもない時期のため、空襲等により空地になっていた市街地を活用して建設される場合が多く、そのため交通の便においては非常に優れていた反面、周辺市街地の復興が進むにつれ、グラウンドや諸設備の拡張が難しいという問題を抱えることとなった。だが、この当時建設された球場は、後に建設される球場に多大な影響を及ぼしている。それら日本独自とも言える特徴は以下の通りである。 1層式スタンド 敷地面積、及び建設コストの兼ね合いから、内野スタンドは多層式ではなく1層式が主流となった。それによる観客収容数の減少を防ぐため、座席の前後間隔を60 - 70cm程度に詰め、スタンドの傾斜は20.0 - 35.0度と急勾配になった(米国の球場の場合、1階スタンドの勾配は12.0度程度)。さらに外野スタンドも巨大化したため、球場の全体的な形状は「すり鉢型」となった。特に大阪スタヂアムの内野スタンドの傾斜は37度にも達したことで有名である。 本塁の北側配置 公共施設として建設された球場の多くが、興業施設としてではなく、アマチュア利用者のプレーに設計の重きを置いたため、公認野球規則を敢えて無視し、本塁から投手板を経て二塁に向かう線を南向きにしている。 バックネット裏・グラウンドレベルへの放送席の配置 プロ野球中継の盛り上がりを受けて、試合を実況するラジオ・テレビの放送席がバックネット裏のグラウンドレベルに設置された。当時の野球中継は国民の最大の娯楽の一つであり、その実況を行うアナウンサーが選手の一挙一動をつぶさに伝えるため、言わば球場の「特等席」を用意されていた。そのため観客席はその煽りを受ける形で上方へ押し上げられ、戦前に建設された球場と比べると臨場感に欠ける面があった。 スタンドに張り巡らされたフェンス プロ野球の盛り上がりと共に、試合中、観客がグラウンド内に乱入して進行を妨げる事例が多発したため、各地の球場で侵入防止のフェンスが張り巡らされるようになった。また、日本独自の太鼓・楽器を用いた応援行為は、グラウンドに背を向ける姿勢で行われることも多々あるため、打球から身を守る安全措置としての意味合いもあった。 1950年代からは各地にナイター設備が整備されていった。1958年にはプロ野球の全本拠地においてナイター設備が整備されている。地方では引き続き公営野球場の整備も進められた。 1962年の東京スタジアムの竣工をもってプロ本拠地の整備はほぼ一段落する。米国のキャンドルスティック・パークを手本に建設された東京スタジアムは、多層式スタンド、内外野天然芝を備え、当時の他球場とは明らかに異なるモダンな設計だったが、僅か15年で取り壊され、歴史の中へ消えていった。
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