学生野球とは? わかりやすく解説

学生野球

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/27 03:55 UTC 版)

学生野球(がくせいやきゅう)とは、そのにおける大学高等学校およびそれら準ずる学校法人組織に所属する野球部が主体となって開催される野球競技の一般呼称である。日本において狭義の意味で大学野球のことを示すことがあるが、日本国内の一般的な扱いは運営組織の構成上の関係から、大学野球と高校野球を合わせたものを呼ぶ。

概略

この記事では日本国内の状況について解説する。

先ず日本語の語彙解釈の点から解説すれば、学生とは一般的に大学生のことを表し、生徒は一般的に高校生のことを表すと定義されているが、学生とは大学生のみを表す(高校生は学生ではない)という定義は一切されておらず、その観点から日本においては大学野球と高校野球を統括する組織を日本学生野球協会と命名し位置づけている。(尚、日本では戦後における中学野球以下に関しては少年野球学童野球という位置づけで捉えている。)

運営する組織体系の観点から説明すれば前述の定義になるが、広義の点から言えば戦前から終戦直後にかけての旧学制による高等学校野球専門学校野球、師範学校野球も学生野球であり、戦後の学制改革を経た新学制による専門学校、専修学校各種学校にもクラブ活動における野球部は存在するため学生野球である事には変わりない。運営組織の体系上で日本学生野球協会がそれらを対象としないだけである。

以上の定義解説を踏まえたうえで、日本において一般的には運営組織の構成を前提にする場合が多い。したがって、あくまで学生野球とは、大学野球と高校野球を合わせたもの(但し特例があるので詳細は後述の他の団体との関連についての記述を参照)であり、その他の各種学校法人の生徒・学生がクラブ活動で行なわれる野球競技活動とは区別する場合が殆んどであると考えたほうが無難である。あえて同用語を使用してその他の学生野球を解説・紹介する場合は、その歴史的経緯や現場での運用現状を理解したうえで特記などを用いて解説するのが望ましい。

沿革

※野球部の創部に関して歴史的な資料価値の観点から創成期(大正期以前)のみを記載対象。(その他のチームについては他の当該資料を参照の事。)また、校名は当時の校名ではなく現在の校名で統一する。

明治期(1868〜1911)

大正期(1912〜1925)

昭和期(1926〜1988)

平成期(1989〜)

注1:明治学院の野球チームも同時期には既に結成されていた事が確認されているが、年代の確証が得られていないので未記載。(確認可能なのは新制大学としての野球部創部年である1945年のみ)

他の競技団体との関わり

全ての学生野球関連の団体(高校・大学、硬式・軟式・準硬式などを問わず)は、他の多くのスポーツ競技連盟とは異なり、直接に日本オリンピック委員会(JOC)や日本体育協会には加盟せず、独自の理念や規範に基づいて運営しているところが殆んどである。総合的な国際競技大会等への参加についての諸問題に関しては、上位に関連別団体との合同で別組織を設立し、そこが加盟団体となることで対処している。

学生野球団体と他のアマチュア野球団体との関係

日本の学生野球を含むアマチュア野球界は、長年、社会人野球大学野球高校野球少年野球学童野球女子野球・その他の学生野球専門学校高専)の団体が複雑に絡み合って発展し、且つ、それぞれが独立して運営されてきた。したがって、学生野球と関連団体の織体系を説明する場合、アマチュア野球界としての関連の中で説明した方が全体の構図としてわかり易く、重複部分も多いので、アマチュア野球の項での当該説明を参照すること。

その他の関連項目

脚注

  1. ^ 歴史について - 明治学院大学硬式野球部
  2. ^ 東洋大学『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』東洋大学創立百年史編纂委員会〈07_通史編1-2_第二編 専門学校令による東洋大学②〉、1993年、942頁http://id.nii.ac.jp/1060/00007703/ 
  3. ^ 硬式野球部 | 中央大学

学生野球

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:33 UTC 版)

新田恭一」の記事における「学生野球」の解説

腰本寿監督率い慶應義塾普通部プレーし1916年には右翼手2番投手として第2回全国中等学校優勝野球大会出場この年慶應普通部完投能力のある三投手擁しエース主将山口昇慶應義塾大学現役レギュラー選手で、大学リーグ当時三大学)にも出場していた。このため山口温存外野守り1回戦から準決勝までの3試合全て新田先発大丈夫と見ると新田を休ませ、リリーフもう一人日独混血河野元彦が投げ相手手強い途中から山口投げた結局決勝だけ山口先発完投して全国優勝したが、文献によっては山口夜盲症下痢体調崩してたとする物もある。近年でこそ東京勢は強いが、夏の選手権次に東京勢が優勝するのは60年後の1976年桜美林)となる。 1917年第3回大会にはエース5番打者として出場し新田成長もあって各チームから極度に恐れられる優勝候補であったが、主戦捕手負傷欠場もあって準々決勝敗れた卒業後は慶應義塾大学進学するや否や攻守両面技量買われて、投手捕手右翼手中堅手兼ねる名選手として大活躍。早慶戦の無い大正年代歴史的戦いと言われた年一回一高戦で1919年、6回決勝点となる三塁打放ち名投手内村祐之完敗した前年屈辱晴らした1920年来日したハーバート・H・ハンターらのいたコーストリーグを主体としたアメリカ職業野球チームに、日本第一線投手ことごとく打ち込まれたが、新田のみが互角に渡り合い接戦演じた同年秋、打率.333を打ち首打者1921年3月13日には、芝浦球場球場開きとして行われた早慶戦復活前哨戦三田倶楽部-稲門倶楽部戦で、OB混じり慶應義塾現役選手として出場三田エース不動4番としてチーム勝利導いた。この三田-稲門定期戦は、現在の巨人-阪神戦以上の人気を集めたといわれるとりわけ慶應義塾早稲田のエース強打者時代の寵児としてもてはやされ1922年には、1910年初来日以降早慶相手27無敗であったシカゴ大学新田好投初めて破る。同年初めて"選抜チーム"として来日した大リーグ相手にもスピットボール武器健闘した慶應では小野三千麿の後のエースとなり、満州朝鮮遠征中に関東大震災があった1923年には主将務める等、小野秀雄らと慶應野球部黄金時代築いた主将時代には格好捕手がいなかったため、自らマスクをかぶり、その年入部してきた永井武雄浜崎真二長浜俊三ら新人投手育成あたった。この時、それまで針金マスクからはじめて現在のような捕手マスク大学使用したといわれる1931年発行の『六大学野球全集』では「多士済々慶應野球部にあって第十五次主将印綬を帯び天才児新田恭一器用な野球選手いないだろう」「彼こそは正に球界麒麟児稀有万能選手であった」と評している。リーグ戦通算53試合出場189打数56安打打率.296。

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