早慶戦復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 19:40 UTC 版)
1922年、関西で慶應系選手を主体にしたクラブ・チーム「ダイヤモンド倶楽部」に所属。関西へ初遠征してきた芝浦協会と対戦し、浜崎は永井武雄と二人で同チームを完封した。1923年、慶應義塾大学に進学。当時早慶戦は中止されていた時代、野球部は全部で15人だったという。新人ながら主戦投手に抜擢され、更に主軸打者としても活躍した。この年の関東大震災は満州遠征で免れた。この年と1927年、極東選手権に全慶應の選手として出場。1925年、国民的関心時だった「早慶戦復活」最初の試合で腰を痛めて二回KOされ、神宮球場が完成した1926年も勝てず、慶應は二年間早稲田大学に勝てなかったが、"陸の王者"の歌詞で知られる慶應義塾大学応援歌「若き血」が出来た1927年、早稲田を2試合連続完封して雪辱を果たした。浜崎は"早慶戦のヒーロー"となる。長い間の「早慶戦」の断絶から、その後まる二年間、屈辱的な敗戦で負け続け、恨みが積もっていただけに、ナインの喜びは勿論のこと応援団は天地がひっくりかえるような騒ぎであった。"陸の王者"の絶叫は神宮の森にいつまでもこだました。早稲田と慶応の優劣の位置は完全に逆転し、大正後期の早稲田黄金期は遂に終わりを告げ、代わって慶応時代が到来した。このシーズン浜崎は絶好調で5試合に登板、与えた安打はわずか9本、得点は東大戦に捕逸で1点を失っただけで、あとは全部シャットアウトする快投ぶりであった。1927年、銭村健一郎らアメリカ在住の日系人の尽力により来日したニグロリーグ選抜・フィラデルフィア・ロイヤルジャイアンツと対戦する三田倶楽部の一番ライトとして出場した。慶應の米国遠征でも、“スクール・ボーイ(小学生)”と呼ばれアメリカでも有名となったこの米国遠征の帰途で、浜崎の先輩に対する不遜な態度により、浜崎除名事件がおきた。この影響で最上級生でなるべき主将にならず、若き岡田貴一が主将となった。リーグ戦は投手として29試合登板、14勝7敗、打者として78試合出場、221打数56安打、打率.253、1本塁打。2007年の野球界はプロ野球の裏金問題に端を発して高校野球の野球留学と特待生問題で大きく揺れたが、浜崎は自著に「神戸商業時代は、野球部関係の先輩が面倒を見てくれ」「慶應へ進んでからは三田倶楽部が世話をしてくれた」ため「親からは一文も仕送りをして貰わずに」済んだ、と書いており、こうした事例の確認出来る最初のものと考えられる。
※この「早慶戦復活」の解説は、「浜崎真二」の解説の一部です。
「早慶戦復活」を含む「浜崎真二」の記事については、「浜崎真二」の概要を参照ください。
- 早慶戦復活のページへのリンク