じだい‐の‐ちょうじ【時代の×寵児】
時代の寵児
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:20 UTC 版)
1946年(昭和21年)、雑誌が復刊され出し、1月に「わが血を追ふ人々」(『島原の乱』構想の一部を独立させたもの)を『近代文學』に発表。4月に『新潮』に発表した評論「堕落論」は、終戦後の暗澹たる世相の中で戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、〈堕ちきること〉を考察して、敗戦に打ちのめされていた日本人に大きな影響を与えた。同誌に6月に発表した小説「白痴」も大きな反響を呼び、この2作によって脚光を浴びた安吾は一躍人気作家となる。続いて7月に「外套と青空」を『中央公論』、9月に「女体」を『文藝春秋』、「欲望について」を『人間』、「我鬼」(のち『二流の人』に挿入)を『社会』を発表。「女体」は、夏目漱石の作品を〈全然肉体を生活してゐない〉とし、〈一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿に於て歩ませる〉という主題の作品である。 10月に自伝小説「いづこへ」を『新小説』、「魔の退屈」を『太平』、「デカダン文学論」を『新潮』、「戦争と一人の女」を『新生』に発表。11月に自伝小説「石の思ひ」を発表。12月に「続戦争と一人の女」を『サロン』に発表し、旺盛な活動を見せる。この頃、太宰治や織田作之助と座談会で面識をもつ。写真家林忠彦と酒場ルパンで知り合い「カストリを飲む会」を通じ交友し、12月に安方町の自宅の二階の紙屑だらけの仕事場で撮られた写真も後に有名になった。2年間ほど掃除をしていない部屋を見て、林忠彦は「これだ!」と叫んだという。同月には文藝春秋社『座談』で阿部定と対談する。
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