人気作家となる
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19歳の時に養父が亡くなり、養母も実家に帰り、天涯孤独の身となる。麹町平河天神境内の借間に住み、その後『文藝倶楽部』編集長の森暁紅の紹介で、深川の講談師で速記講談の売れっ子だった悟道軒円玉の家に住み込んでその口述筆記を手伝い、漢詩や江戸文学の素養も積んだ。また円玉の紹介で久保田万太郎に師事し、また久保田の紹介で小山内薫の脚本研究会に参加、やまと新聞の記者などを勤める。1922年に坪内逍遥らが選者となって帝国劇場創立10周年記念の戯曲募集があり、松太郎の応募した「出獄」が、永井龍男らとともに入選した。 1923年(大正12年)の関東大震災の後、小山内の薦めで大阪のプラトン社に岩田とともに勤め、直木三十五と共に働き、『苦楽』の編集に当たる。1926年に帰京し、小説や随筆、戯曲などを執筆。1930年頃からは『講談倶楽部』で、現代物小説や映画読物などを執筆し、1931-32年連載の「女優情艶史」は評判が高く、次いで時代物の「湯檜曾の平太郎」「萩寺長七」などを執筆。1933年11月、文士賭博事件で久米正雄、 里見弴らとともに検挙され、罰金刑を受ける。1934年に『オール讀物』に掲載した明治時代の芸人世界を舞台にした人情もの「鶴八鶴次郎」の評判が良く、1935年から老舗の料理屋をめぐる人情話「風流深川唄」を連載。これらの明治物により、この年の第1回直木賞で、当時菊池寛と親しかった『日の出』編集者の和田芳恵、『講談倶楽部』編集者萱原宏一などの推薦で受賞。続いて花井お梅の事件をモデルにしたと言われる『明治一代女』執筆。その後『愛染かつら』は身分違いの男女の恋愛とすれ違いの展開で、当時のベストセラーとなり、田中絹代・上原謙の主演による映画化も爆発的なヒットとなって、一躍花形作家となった。 1940年に劇団新生新派主事となり演劇界で活躍。また戦後の1947年に大映製作担当専務、監査役となり、映画界にも貢献。この年『日本小説』創刊号では、和田芳恵の依頼で關伊之助のペンネームで書いた現代ものの中編小説「裸婦」も評判となった。1949年に直木賞が再開されると選考委員となり、以後第80回まで30年間務める。
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