ふじこ‐ふじお〔ふぢこフジを〕【藤子不二雄】
藤子不二雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 05:38 UTC 版)
藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は、日本の漫画家。藤本弘(ふじもと ひろし)と安孫子素雄(あびこ もとお)の共同ペンネーム。
注釈
- ^ a b 出生時は氷見郡氷見町で、1952年に市制施行。
- ^ 1966年連載開始版は藤本メインの合作、1983年連載開始版は藤本単独作。
- ^ 石ノ森章太郎の助言で「藤子・F・不二雄」に改名した。
- ^ アマチュア投稿作品は除く。
- ^ #独立後の合作の名義を参照。
- ^ アニメ声優交代時とCOVID-19感染拡大時の2年を除く
- ^ 後の高岡市立定塚小学校、2022年閉校。
- ^ 「ぼくはもともと小田富彌、岩田専太郎氏などの時代劇挿絵が大好きで、よくチャンバラの絵を描いていた」「藤本君の影響で漫画の方へ転向」藤子Ⓐの寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.6
- ^ 新制中学になるのは1947年4月〜なので当時から中1という略称が使われていたかどうかは要検証。
- ^ 安孫子「藤本くんがとっていて〜」 『藤子・F・不二雄の世界』(小学館 1992年)P.62
- ^ 安孫子「ズーッと愛読していた。ぼくの家でとっていたわけではないので、きっと学校でとっていたのだろう」「戦時中から連載漫画を愛読」「松下井知夫、花野原芳明、井元水明氏などの漫画を記憶」藤子Ⓐの寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.6
- ^ 安孫子「新しい漫画」「新鮮でチャーミングなタッチ」「スマートな流れるような曲線」「それまで戦前の漫画のタッチで描いていたぼくたちの画風が、いっぺんに手塚タッチに転向してしまった」藤子Ⓐの寄稿より 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.7
- ^ 新制中学になるのは1947年4月〜なので当時の名称は要検証。
- ^ 『まんが道』では2人宛の葉書になっているが実際は藤本宛で、冒頭に大きく「DEAR Fujimoto」とあり、渦巻状に記述された文字はどんどん小さくなり、最後に極小の文字で「アビコ君によろしく」と書かれている。『漫画少年』に入選した漫画のことなども記されている。5か月前に出したファンレターの返事。
- ^ 当時製作された『少太陽』は数冊現存し、1995年に『開運!なんでも鑑定団』にて1200万円と鑑定されている(出演・持込をしたのは藤本)。
- ^ 「月/日」は発売された月または月日。
- ^ 無題のため、1コマ目のセリフを記載。
- ^ はがき漫画で特等に入選するも作品の掲載はなし。
- ^ 「月/日」は発売された月または月日。
- ^ 「手塚不二夫」(おそらく誤植)名義の作品も含む。その場合は注釈を記す。
- ^ 「手塚不二夫」名義での掲載。
- ^ 手塚の連載漫画を目あてに中学生になってからも『毎日小学生新聞』を購読し『AチャンB子チャン探検記』を楽しんでいたという藤子(小学生時代は小学校で読めたとのこと)。1948年12月に『グッちゃんとパイコさん』の連載が終了してからも当然次の連載を待ち、身銭を切って購読を続ける。しかし手塚の新連載は一向に始まらない。『天使の玉ちゃん』はその3年後に投稿されている。
- ^ 読者による投稿が採用されたという意味ではこれまでの投稿漫画と同じだが、読者(アマチュア作家)に向けた「賞金」としてではなく、「連載漫画の掲載代」として原稿料が支払われている。
- ^ 『まんが道』に掲載された『天使の玉ちゃん』はオリジナルのものではなく安孫子がリメイクしたもので、キャラクターの造形が大きく異なる。
- ^ このことで、2人が漫画を描いていることが先生や他の同級生にも一気に知れ渡った。[要出典]。
- ^ 知らない間にデビューしており、当の作者が後から印刷物を見るという状況から考えて、この時点では藤子は『毎日小学生新聞』の定期購読をやめていたと考えられる。
- ^ この時2人が見せた漫画を手塚は終生大切に保管していた。
- ^ 継続的な初出勤日は、3月末の月曜日であれば31日。
- ^ 当初は図案部に配属されるも、ほどなく学芸部に異動。「絵が漫画っぽくて、信用が得られない」との広告主からのクレームが理由。学芸部でも当初は絵を描く仕事ばかりに追われた(1面を飾った吉田総理の似顔など)。図案部は大金が絡む広告の作成をメインとした部署だが、学芸部での安孫子は新聞に掲載される雑多なものを含め様々なカットを手掛けたと考えられる。 『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄Ⓐロングインタビュー P.9〜10
- ^ 別の日のラジオ欄を誤って掲載してしまうという大事件も起こした。
- ^ この続きの原稿も送付済みだったが、掲載されることはなかった。藤本と安孫子はこの日の時点では最後の掲載とは認識していない。
- ^ 藤本によると「3日というのはオーバーですが、まあ、それに近い感じ」(『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.73)。『Fの森の歩き方』P.265には「4日で退社」と記載されている。4日でも3日でもたいして変わらないので、事実が4日だった場合に3日を「オーバー」と表現するのかどうかという疑問が生じる。
- ^ 火の鳥人物文庫『藤子不二雄Ⓐ』(2002)では、安孫子が5日間勤めた週末の帰り道に藤本に会い「昨日辞表を出した」と告げられる。この火の鳥人物文庫では安孫子の就職日を「4月」としており、週末は4月5日(土)なので、4月1日に安孫子が初出勤し、藤本は4月4日に退職した考えれば辻褄があう(ただし『月刊北國アクタス』2018年10月号には安孫子は3月から勤務と記載されている)。ドラマチックにみせるための脚色や重大な事実誤認もある書籍なので、信憑性は不明。
- ^ 理由は「漫画に専念する時間がほしかった」「会社づとめが性に合わない(内向的で安孫子よりもさらに人見知り)」から「漫画とまるで無関係な仕事なのが耐えられなかった(安孫子は得意の漫画を職務に活用)」「手を怪我するかもという不安から」「実際に手に怪我を負った」まで様々なものがあがっている。半自伝フィクション作品『まんが道』では一切取り上げられていない。小学館の『学習漫画人物館 藤子・F・不二雄』(1997)では本編で事故のシーンが詳細に描かれ、巻末の年表にも「事故により退社」と記載されているが、事故の詳細の出典はない。1997年以降のテレビ番組等では「学習漫画人物館」の内容をそのまま放送しているだけとも考えられる。火の鳥人物文庫『藤子不二雄Ⓐ』(2002)では怪我のことは一切語られず、退職理由としてサラリーマンの適性がないことが長く語られる(『まんが道』の才野と同じ理由なので『まんが道』を参考にしていると推測できる)。公式の書籍『Fの森の歩き方』(2010)でも怪我については非掲載。
- ^ 「もし機械に腕を巻き込まれ大怪我をして漫画が描けなくなったらどうしよう。仕事が合わない」[要出典]
- ^ 「月/日」は発売された月または月日。
- ^ 「牛塚不二雄」(おそらく誤植)名義の作品も含む。その場合は注釈を記す。
- ^ 「牛塚不二雄」名義での掲載。作品が掲載された『アサヒグラフ』4/9号が発売された4月2日は、『天使の玉ちゃん』が最後に掲載された日の2日前。
- ^ 火の鳥人物文庫『藤子不二雄Ⓐ』(2002)「帰郷後、依頼があった」という事実が就職前の位置に記載されているが、3月中に依頼があったことを必ずしも示しているとはいえない。「手塚が出版社に2人を推薦」「出版社が検討」「執筆依頼の連絡が届く」という3行程が9日ほどで行われるものなのかという問題もある。
- ^ 「手塚不二雄」ではあまりに露骨だということで変更した。
- ^ 『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄Ⓐロングインタビュー P.13 安孫子の「聞き手を楽しませるためのインタビュー」なので、藤本の口調等は実際は異なっていた可能性も考える必要がある。独立時も、藤本が安孫子宅を突然訪問し「別れよう」と告げている。
- ^ 『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄Ⓐロングインタビュー P.13 母の言葉は「あなたの好きなようにしたらいい」の意。息子の自主性を尊重した言葉。
- ^ 『月刊北國アクタス』2018年10月号 藤子不二雄Ⓐロングインタビュー P.12 『平成日本の夜ふけ2』でも同様のエピソードが語られているが、各種エピソードは細部の数字が事実と異なるなど不正確な点が多々ある。後年のインタビューでの発言はとくに検証が必要。『北國アクタス』では数十年後に竹内さんにテレビのご対面番組出演を頼み「おばあさんになったから」と断られるも「覚えてくれていてすごくうれしかった」とのエピソードも語っている。
- ^ 同僚と酒宴を行うシーンが『まんが道』にはたびたび登場するが、『まんが道』は少年向けフィクション作品である(二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律)。
- ^ 『Neo Utopia』Vol.62(2021)P.32 森下の親戚、各出版社を訪問。トキワ荘には手塚を訪ねるも、手塚は編集者に連れられてすぐにいなくなってしまう(旅館にカンヅメになって原稿を執筆するため)。
- ^ 敷金も置いていくと言われたとのこと。8月1日2人でトキワ荘訪問。手塚と加藤の会話から話が流れたとガッカリ。10月4日、手塚再度「トキワ荘のぼくの部屋にこないか」 『トキワ荘青春日記』より
- ^ 藤子は2年後の8月に手塚に返還。
- ^ 2人は手塚愛用の机で漫画を執筆した。手塚と藤子が使用したこの机は現存しており、安孫子の生家である富山県氷見市の光禅寺に保管されている。
- ^ たとえば入居時藤子の隣室に住んでいたのは母親と娘2人。上の娘は卒業まで間もない女子高生。毎朝6時に炊事場で米を炊く20〜21歳の藤本と顔をあわせた。 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.177
- ^ 「正月休みを田舎で過ごそうとヘタヘタになりながら帰った。」『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.147
- ^ 実際に間に合ったのは安孫子担当の『世界とたたかう少年(連載)』『どんぐりくん(連載)』『英雄暁に死す』『銭無平太捕物帖』『漫画図鑑スポーツ篇』、藤本担当の『ゆりかちゃん(連載)』の6本。落ちたのは藤本担当の『ああ無情(別冊)』『海底人間メバル(連載)』『よるの王子さま(新連載)』の他、「少年」漫景、「少女」読切の5本。以上、『Neo Utopia』Vol.62(2021)P.64の検証による。『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』では「この月、連載5本のうち3本轟沈。読切3本のうち2本轟沈。別冊轟沈(要約)」、『トキワ荘青春日記』1996光文社版P.47の2月4日の日記には「大破3、中破2、小破3」と記されている。
- ^ 19日の時点ですでに安孫子の2つの連載は送付され、藤本の担当作はすべて落ちた状態(『ゆりかちゃん』は藤本上京後完成)のため、藤本の体調不良の可能性も指摘されている。また藤子Ⓐは「帰省するまでほとんど寝た記憶がない(ほど働きづめだった)」「おとそを飲んでちょっと横になったら寝ちゃいますよ」「出版社も5日まで正月休みだから催促してこない」「北国ならではのこたつもまずかった」(一部は意訳)等の理由を語っている(『まんが道大解剖』(2017)、『@ll 藤子不二雄Ⓐ』P.180より)。
- ^ 安孫子は粉雪の中見送る。 『トキワ荘青春日記』より。安孫子よりも内向的な藤本が1人で上京したのは、落とした仕事の多くが藤本担当(藤本上京時には『ゆりかちゃん』も落ちた状態)で、編集者もそれを認識していたためだと考えられる。
- ^ 23日藤本より葉書「鍵忘れ家なき子」。24日藤本より第2報「カミソリで開けた。夜間仕事の才能あり」「少女、明日までに完成せよ」。 以上『トキワ荘青春日記』より。
- ^ 2月4日藤本より上京第3報「あとは日本晴れ、とはいきませんが、とにかく大丈夫」 『トキワ荘青春日記』より。
- ^ 安孫子が担当していた『どんぐりくん』と『世界とたたかう少年』は原稿は落ちなかったにもかかわらずほどなく連載終了(それぞれ5月号、6月号にて)。藤本担当作『海底人間メバル』は3月号を休載、4月号で終了、『ゆりかちゃん』は7〜8月号を休載し9〜10月号まで連載が継続した後で終了、『よるの王子さま』は次号の4月号から連載開始し、原稿落とし事件とは関係なく雑誌の休刊により6月号で終了。
- ^ ベタ、ホワイト、ライン等の作画上の手伝いも。押入で寝たというが、その間も2人は机に向かっていたという。 『まんが道大解剖』(2017刊内の2016の談話)P.56
- ^ 安孫子姉「(混雑した列車内で)弘さんが買ってきてくれたアイスがすご〜く美味しかった」。 『まんが道大解剖』(2017刊内の2016の談話)P.56
- ^ 安孫子の姉によると「収入が入るようになって呼んだ」 『まんが道大解剖』(2017刊内の2016の談話)P.57
- ^ 同郷の女性と見合い。翌年連載開始の『オバQ』の正ちゃんの名前は石森章太郎の名を借りて付けたといわれているが、妻の名前でもある。
- ^ 安孫子の姉がマネージャーに就任。 『まんが道大解剖』(2017刊内の2016の談話)P.57より。別の書籍で「安孫子姉のマネージャー就任はドラえもん連載の途中」と語っている人物の発言の信憑性を失わせる事実。
- ^ 翌1974年にテレビドラマ化。次連載は『愛たずねびと』(1974)。
- ^ 大人向けのものは異色短編と呼ばれることもある。
- ^ SF短編等の掲載はその後も行った。『エスパー魔美』『T・Pぼん』等の執筆もほどなく行われたため児童漫画に専念したわけではない(魔美とぼんの掲載誌は非週刊)。
- ^ 通常の形式の漫画作品としては最後の合作。「オバQが最後の合作」ときくと1964年頃までしか合作をしていないと誤解しがちで、そのように誤記された解説文等も多く流布している。
- ^ オバQブームの際の多数のアニメ化を第一次ブームとするならば、第二次藤子不二雄ブーム
- ^ 正子さんが「あらー、アビコさんところ大変なのに、こんなにしてもらって」と言うから、「こういうときだから、おめでたいことはおおいに……」と言う。 藤子不二雄Ⓐ『たのむよ和代氏、もう一度しゃべって』P.62
- ^ 藤本氏、「心配していたけど、ずいぶん元気じゃない。笑ったり、うなずいたり表情も豊かだし、あれなら大丈夫。回復するよ」と励ましてくれる。 藤子不二雄Ⓐ『たのむよ和代氏、もう一度しゃべって』P.88
- ^ 学年誌の7月号までは全学年に計6本のドラ短編を執筆。8月号から3学年が、9月号から全学年が再録。
- ^ 藤本正子(妻)によると「あれだけ本を読んでいた人ですから、自分がガンであることはわかっていたように思います。けれど、彼は最後まで何も言いませんでした」『こだわり人物伝 藤子・F・不二雄』(2010年)P.54
- ^ a b c d 藤本正子(妻)談。『こだわり人物伝 藤子・F・不二雄』(2010年)P.54
- ^ テレビ番組『こだわり人物伝 藤子・F・不二雄』#3(2010年NHK教育)
- ^ "「もしかしたら僕や周りの人に迷惑をかけられないと思ったのかもしれない」「少し考えさせてほしい」と引き取っただけで、理由も問わなかった。「大事なことはいつも彼の判断に従ってきた。その彼の決めたことなら」。後日、電話で「分かった」と告げた。"「コンビ解散後も互いに手放さなかったペンネーム2022年4月8日 12時00分」
- ^ 藤子不二雄Ⓐ 「未来の国からはるばると」『NHKテレビテキスト こだわり人物伝』2010年4-5月号(第6巻3号)、日本放送出版協会、p.22。
- ^ 単独作であっても2人で描いているかのように紹介される記事もあったが、一定のファンの間では分担は周知されていた。
- ^ a b 妻の藤本正子は、後に藤子プロの社長に就任する伊藤に「藤本に原稿を描かせてあげるための体制を作って欲しい」「健康が大切なので、休み時間をきちんととれるようにしてほしい」と要望している。『こだわり人物伝 藤子・F・不二雄』(2010年)P.27
- ^ 長谷邦夫は「重病の藤本は(中略)生前にこれまでの二人の共同作品も含めて全作品を、FとA、そして合作とに線引しておく必要を強く感じていたはずである。 彼ら二人っきりだったら、友情という絆だけで、どのようにも分割できる。しかし、二人にはすでに家族が存在する。後にトラブルを起こさないよう、明確に分離しておかなければならない」と推測している。 長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』(2004年)P.296
- ^ 藤子不二雄としての著作権料は関与の度合いに関係なく均等に二分割だったが、どちらかの死後、遺族によって『ドラえもん』の巨額の著作権料の分配が問題となると予想され、それを未然に防ぐためにコンビを解消したという。 安藤健二「封印作品の謎2」太田出版、P181~184
- ^ 『別冊宝島』409 ザ・マンガ家 / 宝島社 参考:ドラえもんコラム008
- ^ 大山のぶ代によると、藤本はアニメ『ドラえもん』関係者によるゴルフコンペ「ドラコン会」には参加していたが、ゴルフをするのは年に1、2度と本人に言われたという。大山のぶ代『ぼく、ドラえもんでした。』 小学館文庫、pp.112-113
- ^ 賞の正確な名称は「日本漫画家協会 優秀賞」。
- ^ 藤本「アイデアは僕のほうが多かったけれども彼がやったこともあります。ネームを入れたりね。善玉側を僕が描いて悪玉側とメカとかコスチュームとかを彼にやってもらって」『まんだらけ 12』1996年 P.22
- ^ 「オバケのQ太郎」のタイトルで発表された作品のうちの1971年以降のもの。「新オバケのQ太郎」のタイトルの単行本に収録されている。O次郎登場以降。
- ^ 藤本が通常通りに執筆した漫画作品のうちの、全人物の作画を安孫子が担当したと考えると分かりやすい。
- ^ 表1〜表4は除く。
- ^ 「合作」はさらに「藤本メイン作品」「安孫子メイン作品」(一部の作画等を相棒が担当している)と「完全合作」(共に多く関わる)の3つに分けられる。
- ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』に序文を寄せた手塚治虫は、「両氏の個性は作品を一目見ればすぐ見分けがつく」と指摘している。 『二人で少年漫画ばかり描いてきた』 日本図書センター、p.3
- ^ あくまでもごく一部の人がごく一部の状況で用いた呼び名であり、日常的に用いられた定番のあだ名ではない。熱心なファンは藤本作品に安孫子作品並の闇が内包されていることを知っているし、ライトファンや一般人の多くはそもそも作風の違いに気づかないので、「残酷で暗い描写が特徴のA作品、清く明るいF作品という意味で当時のファンがこのあだ名を広く用いていた」等の文脈で報道されると何重もの歴史的誤認が生じる。
- ^ 「参考:オークションに出品された最後の合作・読切オバQ掲載の月刊少年ジャンプ」
- ^ これ以降合作が行われなかった理由は「藤本がドラえもんの執筆で超多忙、安孫子もハットリくん、猿等の人気作の連載で多忙だったので合作の時間がなかった」等の状況からその一端が伺える。『たのむよ和代氏、もう一度しゃべって』に掲載された当時の日記には、遊び人のイメージとは裏腹に日々連載漫画のアイデア出しと執筆に追われる安孫子の多忙な様子が記されている。
- ^ 外部リンク:藤子・F・不二雄大全集『新オバケのQ太郎』公式
- ^ 正確には1988年2月号頃まで
- ^ 2023年現在。
- ^ ただし、『パーマン』は独立後は藤子・F名義となったため、安孫子は映画に一切関わっていない。
- ^ ただし、キャラクター指示書は藤本が描いており、アニメの正太や伸一は藤本作画に近い見た目になっている。
- ^ コンビ時代はすべて藤子不二雄作品なので、「藤本メインの合作」や「藤本単独作」であっても、安孫子が作詞を行っている可能性がある。
- ^ アシスタントとしての勤務実績は不明
出典
- ^ a b c d e まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、323 - 324頁
- ^ 藤子不二雄ランドの藤本作品では1988年2月19日発行『バケルくん』1巻まで奥付に「藤子不二雄」「Fuziko Fuzio」「FUZIKO STUDIO」と記載。1988年3月11日発行『パーマン』8巻から1989年1月13日発行『T・Pぼん』2巻まで「藤子不二雄Ⓕ」「Fuziko Fuzio」「FUZIKO PRO」と記載。1989年1月20日発行『少年SF短編』1巻から「藤子・F・不二雄」「Fuziko F Fuzio」「FUZIKO PRO」と記載。
- ^ a b 富山新聞「藤子不二雄Ⓐさん、命日は4月6日」
- ^ 火の鳥人物文庫『藤子不二雄Ⓐ』(2002)P.14
- ^ 『手塚治虫デビュー作品集』P.8
- ^ 『@ll藤子不二雄Ⓐ』P.58
- ^ 『まんが道』春雷編(中公文庫p70)
- ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』文春文庫版P.27
- ^ 小学館版学習まんが人物館「藤子・F・不二雄」1997年 P.34
- ^ 『Neo Utopia』Vol.45、15頁に3月16日に亡くなった旨が記載。同誌Vol.46、17頁に亡くなった年が1950年である旨の訂正が記載。
- ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』文春文庫版P.33
- ^ 『@ll 藤子不二雄Ⓐ』P.58
- ^ a b 『Fピース』(藤子・F・不二雄大全集予約特典冊子)、『藤子・F・不二雄作品リスト』『藤子不二雄Ⓐ作品リスト』(Neo Utopa)
- ^ a b 『@ll 藤子不二雄Ⓐ』(小学館)p182
- ^ 日本図書センター版P.64-65
- ^ 阿川佐和子『阿川佐和子のこの人に会いたい』(文春文庫、1997年)P.210 藤子不二雄Aのインタビュー
- ^ 『島知一著 私の見た戦後の高岡諸相』
- ^ 『まんだらけ10』藤子不二雄Ⓐインタビュー
- ^ 『手塚治虫デビュー作品集』(毎日新聞社 1991年)P.9 藤子Ⓐの寄稿より
- ^ a b 『月刊北國アクタス』2018年10月号p9
- ^ NHK『この人藤子不二雄ショー』 1985年3月14日
- ^ 小学館版学習まんが人物館「藤子・F・不二雄」1997年 P.55
- ^ 『月刊北國アクタス』2018年10月号p7
- ^ 『藤子・F・不二雄作品リスト』『藤子不二雄Ⓐ作品リスト』(Neo Utopa)
- ^ ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p123
- ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 文春文庫版P.102
- ^ ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p247
- ^ ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p257
- ^ 『トキワ荘青春日記』(1996年版)p159の12/21(土)の日記の安孫子の目先にやらなければならぬことリスト内に「スライド「こけしぼっこ」用コンテ」の記述
- ^ 『Fujiko F Fujio World』(「藤子・F・不二雄展」図録。1998年1刷)p105にスライド4枚の写真。
- ^ a b 『Fujiko F Fujio World』(「藤子・F・不二雄展」図録。1998年1刷)p5
- ^ 『@ll 藤子不二雄Ⓐ』p195
- ^ ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p285
- ^ ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p289
- ^ a b 『Neo Utopia』Vol.62。(2021)P.36
- ^ 『トキワ荘青春日記』(光文社1996)P.224〜228
- ^ 『Neo Utopia』Vol.62(2021)P.92
- ^ 稲垣高広『藤子不二雄Aファンはここにいる Book1 座談会編』社会評論社、2009年、18頁。ISBN 978-4784509386。
- ^ 『ビッグ作家 究極の短編集 藤子・F・不二雄』p.236 藤本正子 談
- ^ 『Neo Utopia』Vol.46 p120
- ^ 梶田達二 洋画展-藤子不二雄ファンはここにいる
- ^ 幸森軍也『ゼロの肖像』講談社、2012年、82頁。
- ^ 『Neo Utopa』Vol.64 p17
- ^ ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p409では「昭和43年10月」となっているが、『丹下左膳』の放送記録によると左記。
- ^ 『Neo Utopia』Vol.64 p15。ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p413では「昭和44年5月」となっているが誤り。
- ^ ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p410。同書p413に記載されている藤本のスタジオゼロ社長就任の年月(同年同月)が誤っているため、この年月も誤っている可能性がある。
- ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 日本図書センター版pp.260-263
- ^ 『讀賣新聞』2010年7月5日号、藤子不二雄Ⓐ『78歳いまだまんが道を』 p.110
- ^ a b 月刊コロコロコミック1979年12月号 ドラえもんカラー新聞
- ^ ビッグ・コロタン『藤子不二雄 まんがヒーロー全員集合』(小学館)p441には「昭和53年10月」に「北京、長沙、桂林、広洲」を旅行と記されているが、2年連続で同じ地を巡ったのでない限り年月の誤植。
- ^ a b c d 藤子不二雄Ⓐ『たのむよ和代氏、もう一度しゃべって』
- ^ a b 「週刊読売」1996年10月13日号
- ^ 各誌の『ドラえもん』短編の連載は再録となっていたが、コロコロ11月号(10月15日発売)から新作大長編『竜の騎士』を新連載。
- ^ 再開していた学年誌での『ドラえもん』短編の新作連載が、5月号(4月1日発売)に新作掲載後は再録に。
- ^ a b c d 朝日新聞1988年1月30日付夕刊
- ^ 『Ⓐの人生』(2002年)P.107
- ^ 藤子不二雄Ⓐ『まんが道 愛…しりそめし頃に…』第02巻収録 「特別編さらば友よ」
- ^ 『Ⓐの人生』(2002年)P.111
- ^ 「週刊朝日」1996年10月11日号
- ^ 「週刊文春」1996年10月31日号 阿川佐和子のこの人に会いたい--長年の相棒が亡くなり眠れない毎日なんです / 藤子不二雄Ⓐ(漫画家)
- ^ “映画産業団体連合会(映画の日)”. 2023年7月30日閲覧。
- ^ “第2回ゴールデングロス賞受賞作品”. 2023年7月30日閲覧。
- ^ a b 『まんだらけ 12』P.22
- ^ NeoUtopia vol.32 P.80
- ^ NeoUtopia vol.32 P.81
- ^ コロタン文庫『藤子不二雄まんが全百科』
- ^ NeoUtopia vol.32 P.48
- ^ 藤子不二雄A、藤子・F・不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』 日本図書センター、p.250
- ^ 藤子・F・不二雄『ドラえもん』 てんとう虫コミックス10巻「見えなくなる目ぐすり」(『小学四年生』1975年12月号掲載)、23巻「長い長いお正月」(『小学三年生』1980年1月号掲載)など。
- ^ 藤子不二雄A『78歳いまだまんが道を…』 p.100
- ^ 講談社火の鳥文庫『藤子不二雄Ⓐ』
- ^ 『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』 日本図書センター版p14
- ^ 至文堂『現代のエスプリ』108号 「戦後マンガ史略年譜」石子順造、長谷川正信のこと。
- ^ 『Neo Utopia』Vol.40 p36
- ^ “忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇”. テレビドラマデータベース. 2023年6月6日閲覧。
- ^ “忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ VOL.2 | 東映ビデオオフィシャルサイト”. 東映ビデオ株式会社 (2017年4月3日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ 『漫画家人名事典』 101頁
- ^ 『漫画家人名事典』 70頁
藤子不二雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)
藤子不二雄の二人は、手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受け漫画家を志した。彼らは学生時代に手塚のファンとして手塚にハガキを出し、その返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」との直筆のハガキを受け取った。そのハガキには手塚のキャラクターの絵と一緒に、文字の列が角度を変えながら中心に近づくように書かれており、ハガキをぐるぐる回しながら文字の列を読むという手塚らしい実に独特なものであった。このハガキが、ますます彼らの漫画家への志に拍車をかける。藤子不二雄は当初、手塚にちなみ、「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし余りにも露骨なため、「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」に変更した。
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藤子不二雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)
1995年12月末~1996年3月中旬まで、番組自体の正月休みやリクエスト大会をはさみつつ11週分放送した。ほかに「レインボー戦隊ロビン」、「星の子チョビン」などスタジオゼロの作品も取り上げた。ほとんどの作品に初代とリメイクがあり、その際は両方ともしっかり特集。うち、「ドラえもん」を3回、「キテレツ大百科」を1回分丸々独占して歴代主題歌・挿入歌を紹介した
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