寺沢武一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 01:37 UTC 版)
てらさわ ぶいち
寺沢 武一 |
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本名 |
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生誕 | 1955年3月30日![]() |
死没 | 2023年9月8日(68歳没)![]() |
国籍 | ![]() |
職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1977年 - 2023年 |
ジャンル | SF漫画 |
代表作 | 『コブラ』 『ゴクウ』 『鴉天狗カブト』 |
公式サイト | buichi.com |
寺沢 武一(てらさわ ぶいち[2]、男性、1955年〈昭和30年〉3月30日 - 2023年〈令和5年〉9月8日[3][4])は、日本の漫画家。北海道旭川市出身[5]。代表作である『コブラ』は全世界での発行部数が5,000万部を超えるヒットを記録している。
来歴
1955年3月30日、北海道旭川市に出生。札幌育ち[注釈 1]。本名は「武一(たけいち)」。
1974年、北海道旭川東高等学校卒業。浪人時代、他に仕事が無かったことから、漫画家を志す。本来は医学部志望だった。
1976年、手塚プロダクションのアシスタント募集[7]のために投稿したマンガが手塚治虫の目に止まり、手塚治虫に師事。上京し、手塚プロダクション・漫画部スタッフとして働いた。
1977年、マンガ「大地よ、蒼くなれ」が第13回手塚賞佳作に入選。同年、『週刊少年ジャンプ増刊号』にて一話読み切りの『コブラ』でデビュー。
1978年、『週刊少年ジャンプ』本誌において『コブラ』連載開始(1985年まで)。1982年に初めてアニメ化された。
1985年、『週刊少年ジャンプ』にて『BLACK KNIGHT バット』連載開始。執筆(彩色)にPC-9801を導入。パソコンを取り入れた漫画家の先駆けとなった[8]。
1987年、寺沢プロダクションを設立し、代表取締役に就任。『コミックバーガー』誌で『ゴクウ』連載開始。『フレッシュジャンプ』誌で『NINJAカブト』連載開始。
1990年、ジャニーズ事務所所属のアイドルグループ「忍者」のデビューシングル用のコスチュームをデザイン。
1992年、『コミックバーガー』誌で『武 TAKERU』連載開始。世界初のフルCGマンガと言われた。
1996年、インターネットホームページ「Manga Magic Museum」開設。
1998年、人間ドックにより悪性脳腫瘍を発見。以後、3回の手術による治療・リハビリを繰り返すが、その後遺症で左半身が麻痺。
要介護4となり車椅子生活を余儀なくされ、排泄や入浴の介助も必要な状態になった。
1999年、『スーパージャンプ』誌で『GUN DRAGON Σ』連載開始。
2003年4月、著作権管理及びエージェント業務全般を行う会社「エイガアルライツ」を設立。
2003年12月、病気について公表[9]。
2008年1月に、26年ぶりとなるTV版およびOVA版『コブラ』のアニメ製作が決定。OVA版では脚本・絵コンテ・監督を自ら担当。
2019年8月、『ARTWORKS OF COBRA』(玄光社)刊行。
2019年11月19日、新創刊のWEBコミック誌「COMIC Hu」でコブラの新作『COBRA OVER THE RAINBOW』の連載を開始[10]。
2023年9月8日、心筋梗塞のため東京都内で死去[1][3][4][11]。68歳没。
2023年9月11日、訃報が寺沢プロダクションにより公表された。同時期にはtvkにて日曜夜9時30分枠で『スペースコブラ』が再放送中であり、9月17日の放送では追悼テロップが表記された。
特徴・逸話
- 作風にはアメコミの影響が強く見られる。『コブラ』や『カブト』等における東洋・日本文化描写もむしろ欧米作品風である。ただし日本人から見ての話であり、欧米人から見れば日本的な作風との事。
- 作画技法に凝ることで知られ、エアブラシやコンピュータグラフィックス効果を用いる。2次元コンピュータグラフィックスを初めて連載漫画の原稿作成に導入したパイオニア的存在としても知られている。カラー原稿は、背景の隅々にまで手が入れられており、漫画原稿にかかわらず単品のポップアートとしても通用する領域に達しており、海外における評価も高い。
- 反面、それゆえに遅筆であり、『コブラ』の週刊連載の際は、ストーリーの区切りごとに休載を挟んで、原稿を描き溜めて連載した。異例の扱いであるが、当時の週刊少年ジャンプの編集長の西村繁男がSF好きという事で気に入られていたため、特例として許された。
- デビューした当時の1970年代においては、女性キャラクターの露出度が非常に高いという作風の特徴から、少年漫画誌への掲載には物議を醸された。しかし絵のクオリティの高さにより女性ファンも増加することで次第に沈静化した。また主人公がクールな性格にもかかわらずルックスは三枚目、というキャラクター像も異色であった。
- 手塚治虫を師と仰いでいる。アシスタントに応募した当初は応募者の選考で絵柄が手塚治虫とは大いに異なるという理由で一度落とされたものの、手塚自身が寺沢の絵を気に入り採用を決めたと言う[12]。
→「手塚治虫 § 関係の深い漫画家」も参照
- ジャンプコミックス版『コブラ』第1巻の後書きは師である手塚治虫。曰く「彼の絵は緻密で丹念である」との事。
- 荒木飛呂彦の漫画『魔少年ビーティー』の「ビー・ティー」は寺沢のイニシャルが元となっているという[13][注釈 2]。
- 荒木の作品『バオー来訪者』のジャンプコミックス版1巻に後書き寄稿。『「彼の作品は、僕のにおいと、とても近い」と、同じSF漫画として絶賛のコメントを2ページ掲載している。』[14]。
- 作中では「そうか」という台詞を「そお〜か」と発音する独特の台詞回しを使う場面が多い。
- 『スペースコブラ』の主人公コブラについて寺沢は「もともとコブラの声というのはクリント・イーストウッドの山田さんのイメージなんです。だから、常に山田さんだったらこんな風にしゃべるだろうな、というのを意識して書きました」と語っている[15]。
作品リスト
- シグマ45(1976 - 1977年頃)
- コブラ(読み切り版)(1977年)
- コブラ(1978 - 1984年、1986 - 2002年、2005 - 2006年) - アニメ化(劇場版・TV版・OVA )・ゲーム化
- BLACK KNIGHT バット(1985年)
- 鴉天狗カブト(1987年、1988 - 1989年) - アニメ化(TV版)
- ゴクウ(1987年 - ?) - アニメ化(OVA)
- 武 TAKERU(1992年 - ?)
- 新撰組GUNDRAGONシリーズ
- GUNDRAGON Σ(1998年 - ?)
- GUNDRAGON II(2004年 - ?)
師匠
アシスタント経験者
脚注
注釈
出典
- ^ a b “漫画家、寺沢武一さん死去 「コブラ」連載”. 東京新聞 TOKYO Web (中日新聞東京本社). (2023年9月12日) 2023年9月12日閲覧。
- ^ “BUICHI.T >>寺沢武一プロフィール - buichi.com”. 寺沢武一オフィシャルサイト. 2023年9月12日閲覧。
- ^ a b “「コブラ」の漫画家・寺沢武一さん死去、68歳 「デジタル漫画」先駆け、98年に脳腫瘍判明も創作続ける”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2023年9月11日) 2023年9月11日閲覧。
- ^ a b ブイチギルド 【寺沢武一作品公式】 [@BuichiGuild]「寺沢武一ファンのみなさまへ(訃報) 漫画家・寺沢武一は2023年9月8日に永眠しました。…」2023年9月11日。X(旧Twitter)より2023年9月11日閲覧。
- ^ BUICHI T. - 公式サイト「buichi.com」寺沢武一プロフィール 参照
- ^ 寺沢武一 (2025年9月11日). “僕も北海道出身です、旭川生まれ、札幌育ちです。”. 寺沢武一(@buichi_terasawa) | Twitter. 2018年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年7月14日閲覧。
- ^ 『週刊少年チャンピオン』誌上の「ブラック・ジャック」内広告でアシスタントを公募していた。
- ^ ブイチギルド【寺沢武一作品公式】 [@BuichiGuild]「1985年の連載1話目の冒頭で、国内の漫画雑誌初・世界でも最初期となる「CGによる漫画制作」…」2023年10月2日。X(旧Twitter)より2024年6月6日閲覧。
- ^ “ファンの皆さんへ、寺沢武一より。”. buichi.com (2003年12月12日). 2023年9月11日閲覧。
- ^ “寺沢武一の『COBRA』完全新作も連載開始! オトナの男のための新WEBコミック誌「COMIC Hu」11月19日ついに創刊!”. KADOKAWA (2019年11月19日). 2025年7月14日閲覧。
- ^ 宇宙海賊漫画「コブラ」の寺沢武一さん死去、68歳…手塚治虫アシスタント経てデビュー(読売新聞、2023年9月11日)
- ^ 『週刊少年チャンピオン』2009年49号、「ブラック・ジャック創作秘話」参照
- ^ a b “「ジョジョの奇妙な冒険 ファントムブラッド」共同プロジェクト発表会を開催”. GAME Watch (インプレス). (2006年9月13日) 2023年9月11日閲覧。
- ^ “荒木先生が『コブラ大解剖』にイラストを寄稿! 描いたキャラは「エロくてゴージャスで頼りになる」あの相棒!”. @JOJO ~ジョジョの奇妙なニュース~ (Simplicity). (2015年3月14日) 2024年8月16日閲覧。
- ^ 『PC Engine FAN』(徳間書店)1991年5月号 7ページ
外部リンク
寺沢武一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)
寺沢は特に手塚のファンという訳ではなかったが、たまたま週刊少年チャンピオンで連載していた「ブラック・ジャック」内のアシスタント募集の広告を見て、手塚プロダクションに作品を投稿する。その時は手塚プロダクションの採用担当者の判断により不採用となったが、後日、手塚治虫が直々に寺沢の絵を見たところ寺沢の絵を気に入り、手塚のアシスタントに採用された。ジャンプコミックスで寺沢の『コブラ』第1巻には、手塚があとがきに寄稿している。手塚はその中で「じつは、助手を募集したとき、どういうわけか寺沢くんは選にこぼれてしまっていた。あとから気づいたぼくは、大慌てで彼を採用しなおした。こんなすごい絵がかける人をなんで見落とすんだ!こうして四人の採用者に彼が一人加わり、それが結果的に、彼がトップにプロの道へ進むきっかけをつくったのだった。」「彼の絵は緻密で、丹念で、しかも美しかった。ことに背景を描かせると抜群だった。」「ジャンプにプロ第一作を載せたということは、寺沢くんにとって大成功だと思う。」と寺沢のことを絶賛している。当時、寺沢は手塚の専属アシスタントをしていたにも拘らず、一人だけ残業をせず、「これから自分の創作活動するんで帰ります」と 早めに帰宅していたが、手塚は寛容に扱っていた。理由は「彼はとても才能のある子だから、一日でも早くアシスタントを卒業してデビューして欲しかった」 とのこと。寺沢は、手塚が火の鳥の原稿をカッターで切り、構図を変えているのを見て「うわっこんな風に発想するのか!」と驚いたという。また寺沢は手塚のことを「僕の思いつきを先生は面白がってくれた。きっとそういう新しい血が欲しかったんだと思う」「手とり足とり教えてくれたわけじゃないがすごくいい時間をもらった。僕にとって金に換算できない貴重な経験だった」と語っている。
※この「寺沢武一」の解説は、「手塚治虫」の解説の一部です。
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