人気作家として
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1976年『岬』の続編として、自身初の長編小説で代表作となる『枯木灘』を上梓する。本作は『岬』の土着的世界に、父と子の対決という構図を前面に出してオイディプス的な神話的相貌を与え、また雑賀孫一伝説を取り入れ歴史的な重層性を持たせることで、格段にスケールを大きくした作品で、高い評価を獲得した。同作品で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞する。1977年、紀伊半島全域を旅して巡るドキュメント『紀州 木の国 ・根の国物語』を『朝日ジャーナル』に連載する。この旅行は作家にとって自らの文学の背景である紀州熊野というトポスを再発見する機会であった。 以後「路地」や紀伊半島を舞台として、実母をモデルにした小説で、『岬』の前日譚にあたる『鳳仙花』(1980年)や、「淫蕩な歌舞音曲好きの澱んだ血」筋により愉楽に満ちた生を送り、一方で引き換えに早死にも宿命づけられた、高貴な血を引く若者たちの短い生涯を描いた、短編連作『千年の愉楽』 (1982年)と長編『奇蹟』(1989年)などを発表していく。 『枯木灘』の続編にあたる『地の果て 至上の時』(1983年)では地区改良事業による「路地」の消滅が主題とされ、その後の長編『日輪の翼』(1984年)『讃歌』(1990年)においては「路地」消滅後に故郷を捨てて流浪する若者の姿が描かれた。 中上は単なる純文学の作家であることにとどまらず、文化的な寵児となった。人的な交流は幅広く、作家や批評家以外にも、文化人(例:坂本龍一 、唐十郎など)、芸能人(例:都はるみ、ビートたけし、宇崎竜童など)、学者(例:阿部謹也、中村雄二郎、上野千鶴子など)らと時代や世相、思潮、文化、歴史など多岐のジャンルにわたる対談、座談を数多く行った。それらのほとんどはのちに発言集、対談集に編纂されている。 中上の文学を高く評価した批評家である柄谷行人、蓮實重彦と交流 があったこともあり、1980年代に流行した思潮であるニュー・アカデミズムに大きな関心を示し、言及も頻繁におこなっている。ニュー・アカデミズムに属するとされる思想家(山口昌男 、栗本慎一郎 、四方田犬彦 など)との活動や対話もおこなった。1986年にはパリ、ポンピドゥ・センターで開かれた「前衛の日本 」展に柄谷行人 、蓮實重彦、浅田彰と参加し、ポスト構造主義の思想家ジャック・デリダと公開対談をおこなっている。 文芸誌に限らず、若者向けの週刊誌や情報誌への連載を旺盛におこなった(1978年『週刊プレイボーイ』誌 『RUSH』 、1984〜85年『BRUTUS』誌『野性の火炎樹』、1984〜85年『平凡パンチ』誌『Heat Up』、1986年『Hot-Dog PRESS』誌 『KENJI' S MAGICAL TOUR IN U.S.A.』 、1990〜92年『週刊SPA』誌『大洪水』)。 映画『火まつり』(1985年) において、自作脚本を映画化するとともに、インタビュー本(『火の文学』)、原作小説(『火まつり』)を出版するというようなメディアミックスの試みをおこなったり 、荒木経惟(『物語ソウル』 1984年)、篠山紀信(『輪舞する、ソウル。』 1985年)といった人気写真家とのコラボレーションで作品を発表したりした。野外劇のための台本『かなかぬち ちちのみの 父はいまさず』を外波山文明のために書き下ろした。本作は1979年浅草稲村劇場での初演以降、場所を変えて何度も上演された。1986年には故郷の熊野本宮大社での上演が行われている。 多忙な執筆の傍ら、中上は頻繁にアジア、アメリカ、ヨーロッパの各地を訪れたり、滞在したりしている。長期滞在の主要なものは初の長期滞在となった単身でのニューヨーク、ハーレム地区滞在(1977年)、『鳳仙花』執筆時の、家族でのロサンゼルス滞在(1979年) 、『地の果て、至上の時』起筆時の単身ソウル汝矣島滞在(1981年)、アイオワ大学のインターナショナル・ライターズ・プログラム客員研究員としてアイオワ滞在(1982年) 、コロンビア大学の客員研究員としてのニューヨーク滞在(1986年)である。海外での見聞は多数のエッセイ(『America, America』『輪舞する、ソウル。』『スパニッシュ・キャラバンを捜して』 など)、創作(『町よ』 『物語ソウル』『野生の火炎樹』『火ねずみの恋』 など)の素材ともなった。 故郷への思いも強く、郷里の文化振興のため、吉本隆明 らを招いた連続公開講座を開催(1978) したり、地元文化交流の組織である「熊野大学」の開設(1989) をするなどの文化的なオーガナイザーとしての活動もおこなった。 1984年〜1989年文學界新人賞(第58回から第68回)、1984年〜1987年新潮新人賞(第16回から第19回)、1988年〜1991年三島由紀夫賞 (第1回から第4回)の選考委員をそれぞれ務めた。 1990年に永山則夫が日本文藝家協会から死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して柄谷行人、筒井康隆とともに協会を脱会している。1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。
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