中間小説の作家
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戦前からの大家では、丹羽文雄が戦後社会にいちはやく適応し『篠竹』(1946年)、『厭がらせの年齢』(1947年)などで風俗小説の第一人者となる。舟橋聖一は『横になった令嬢』(1946年)で情痴小説と呼ばれ、『鵞毛』(1947年)、『雪夫人絵図』(1948-50年)、『芸者小夏』(1952年)で流行作家となり、『影絵夫人』(1961-63年)、『ある女の遠景』(1961年)と耽美的な作風に進む。彼らは石坂洋次郎と並んで『小説新潮』初期に活躍した。 横光利一の提唱を受け継ぐ作家としては、「可能性の文学」を提唱した織田作之助や、『肉体の門』を発表し肉体文学の流行の元になった田村泰次郎などがいた。井上靖は純文学と中間小説の両方の要素を持った作風、健全な道徳性で支持され、『明日来る人』(1954年)、『氷壁』(1956-57年)などの新聞小説で流行作家の地位を築く。他に昭和30年代の人気作家として、時代物から推理小説を書き始めた松本清張や、柴田錬三郎、梶山季之、山手樹一郎、山岡荘八、源氏鶏太、石原慎太郎、黒岩重吾などがいた。また子宮作家と揶揄されて文芸誌から閉め出されていた時期の瀬戸内晴美も中間小説誌や週刊誌で旺盛に作品を発表した。 1971年からは東京新聞で植草甚一による「中間小説時評」が連載され、植草は「中間小説のおもしろさはそれを読んでいくスピードから生まれてくるのだ」と述べ、必ず褒める作家は池波正太郎と藤原審爾だった。『小説現代』初期から起用された中には川上宗薫、宇能鴻一郎(彼らは純文学出身である)らもいた。ジャンル専門誌から中間小説誌に発表の場を広げて評価された小松左京、筒井康隆などがおり、江戸川乱歩賞でデビューした陳舜臣、戸川昌子、佐賀潜なども中間小説誌で活躍する。
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