中間小説誌の誕生とは? わかりやすく解説

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中間小説誌の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 08:11 UTC 版)

中間小説」の記事における「中間小説誌の誕生」の解説

久米発言の後の1947年5月大地書房日本小説』、9月新潮社小説新潮』が創刊され、これらが最初中間小説と言われている。『日本小説』では、「大衆的な広がり持ちながら、芸術性失わない小説」を開拓するため、武田麟太郎の「高い根底を持つ小説を狭い実験室から解放して、手を伸べている多数所有にしたい」との言葉引いて新し小説分野目指すとした。誌名アイデア出したのは水上勉で、創刊号執筆者は、高見順丹羽文雄太宰治林芙美子、関伊之助変名用いた川口松太郎など。『小説新潮10月号では、「大衆小説とか純文学とかいうことばはもうなくしてもいいと考える」といった編集意図述べられた。 戦前から発行されていた大衆小説誌『オール讀物』『講談倶楽部』なども、戦後の復刊後は中間小説的な方向性向かっていき、『別冊文藝春秋』もこの分野に参入した1950年創刊六興出版社小説公園』は、広津和郎室生犀星武田泰淳などを起用。これらの雑誌では五味康祐柴田錬三郎時代小説掲載された。『日本小説』は坂口安吾不連続殺人事件連載など評価高めながらも、経営不振2年半で廃刊となる。しかし『小説新潮』は1954年には39部と部数延ばし同じく好調なオール讀物』や『小説公園』『別冊文藝春秋』『別冊小説新潮』を加えた中間小説誌で100万部近い部数となり、福田宏年1955年中間小説全盛時代呼んだ新聞小説においても、1947年6月からの石坂洋次郎青い山脈』(朝日新聞)、林芙美子うず潮』、丹羽文雄人間模様』(毎日新聞)などが連載され大佛次郎帰郷』(1948年)、獅子文六庶民的ユーモア『自由学校』1950年)も人気呼んだ。これらの作品文学物語性娯楽性風俗性を取り込んで幅広い読者獲得した

※この「中間小説誌の誕生」の解説は、「中間小説」の解説の一部です。
「中間小説誌の誕生」を含む「中間小説」の記事については、「中間小説」の概要を参照ください。

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