中間小説誌の誕生
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久米発言の後の1947年5月に大地書房『日本小説』、9月新潮社『小説新潮』が創刊され、これらが最初の中間小説誌と言われている。『日本小説』では、「大衆的な広がりを持ちながら、芸術性を失わない小説」を開拓するため、武田麟太郎の「高い根底を持つ小説を狭い実験室から解放して、手を伸べている多数の所有にしたい」との言葉を引いて、新しい小説の分野を目指すとした。誌名のアイデアを出したのは水上勉で、創刊号の執筆者は、高見順、丹羽文雄、太宰治、林芙美子、関伊之助の変名を用いた川口松太郎など。『小説新潮』10月号では、「大衆小説とか純文学とかいうことばはもうなくしてもいいと考える」といった編集意図も述べられた。 戦前から発行されていた大衆小説誌『オール讀物』『講談倶楽部』なども、戦後の復刊後は中間小説的な方向性に向かっていき、『別冊文藝春秋』もこの分野に参入した。1950年創刊の六興出版社『小説公園』は、広津和郎、室生犀星、武田泰淳などを起用。これらの雑誌では五味康祐、柴田錬三郎の時代小説も掲載された。『日本小説』は坂口安吾『不連続殺人事件』連載などで評価を高めながらも、経営不振で2年半で廃刊となる。しかし『小説新潮』は1954年には39万部と部数を延ばし、同じく好調な『オール讀物』や『小説公園』『別冊文藝春秋』『別冊小説新潮』を加えた中間小説誌で100万部近い部数となり、福田宏年は1955年を中間小説の全盛時代と呼んだ。 新聞小説においても、1947年6月からの石坂洋次郎『青い山脈』(朝日新聞)、林芙美子『うず潮』、丹羽文雄『人間模様』(毎日新聞)などが連載され、大佛次郎『帰郷』(1948年)、獅子文六の庶民的ユーモア『自由学校』(1950年)も人気を呼んだ。これらの作品は文学に物語性、娯楽性、風俗性を取り込んで幅広い読者を獲得した。
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