カストリ
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カストリ
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カストリ酒、カストリとは、第二次世界大戦後の混乱期において出回った粗悪な密造焼酎に対する俗称である。 第二次世界大戦直後から食糧不足が深刻化し、酒造会社の多くも再建が進んでいなかったため酒類を製造する余裕などなかったが、庶民は気晴らしのため安価な酒を求めており、この需要に応える形で自然発生した。主にサツマイモや麦を原料にしていたが、素人があり合わせの道具と不確かな知識で製造しており、焼酎とは呼べない粗悪な密造酒であった。 闇市では、ラベルの無い不揃いの酒瓶に詰められた出所不明の「焼酎のような」アルコール飲料が取引され、屋台ではアルコール度数が低い物ならば庶民でも手が届くような価格で提供されていた。しかしサツマイモなどが使われていれば上等、アルコール度数が表記されていれば良心的な方で、とりあえずアルコールの臭気はあるが原料・度数とも不明という得体の知れない物が多く出回っていた。 甚だしい例では、酒類に転用されないようにエタノールに失明や中毒死の危険があるメタノールを加えた変性アルコールを使った闇酒もあった。変性アルコールは燃料・工業用であるため、公示価格が適用されず非課税で相対的に安価であり、沸点の違いを利用して販売前に加熱・蒸留してエタノールを分離するというアイディアだったが、実際には、素人が粗末な設備で蒸留した程度では思うように分留できなかった。これらの工業用アルコールを水で薄めた酒は「メチール酒」「バクダン」などと呼ばれたが、庶民は安価な酒を求め、危険な闇酒を飲用したために、中毒事故が多発した。 これらの粗悪なアルコール飲料は、次第に「カストリ」と総称されるようになったため、一般にも「カストリ=粗悪な蒸留酒」というイメージが定着した。その影響で、決して粗悪でない本来の粕取り焼酎まで、誤解によってイメージダウンした時期がある。 1953年の論考によれば、1947年9月末時点の日本国内における密造酒生産量は50万2,000klと推定され、同時期の正規製造場移出数量34万3,000klを大幅に上回っていた。密造酒の中で主流を占めていたのは焼酎であり、都市近郊で大規模な密造集落が形成されるにまで至った。密造検挙件数は1945年の8,510件から、1946年は11,686件、1947年には16,968件と年々増え続けており、当時の密造酒の氾濫ぶりがうかがわれる。 宮崎県の焼酎産業は、太平洋戦争終戦後、密造集落1カ所の存在で大きな影響を受けた特異な例である。 宮崎市内の大島地区は戦時中に工業生産従事のため移住した沖縄・奄美諸島出身者が戦後も残留、生活の糧を得るため大規模な密造集落を形成し、一時は住民900戸中650戸が密造とその資材供給に従事していた。大島製の密造焼酎は原材料を宮崎県内でも入手しやすい芋焼酎で、いわゆるカストリ一般に比べれば良質であったという。密造焼酎に押され、宮崎税務署管内で酒造業者の半分が休廃業に追い込まれたほどで、大島への大規模な取締は1947-52年の間に15回も実施されている。 宮崎県においては、21世紀初頭に至るまで一般的な25度焼酎よりも度数が低い20度焼酎が広く普及しているが、これも国税庁が戦後の密造焼酎横行対策として、正規業者に税率を抑えて廉価とした20度焼酎の製造を認めた結果であった。 派生した戦後混乱期を象徴する表現として、同時期、粗悪紙を用い扇情的な記事を満載して安直に売られた雑誌を指す「カストリ雑誌」という言葉も生まれた。黒澤明監督の映画『醉いどれ天使』など戦後の闇市を舞台とした文芸・映画作品等では、当時の世相を象徴するアイコンとしてカストリ酒が登場する。 日本酒においては、日中戦争時代から米不足や税制により金魚酒と呼ばれる加水しすぎた酒が出回っていた。
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