学生野球時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 19:48 UTC 版)
熊本県天草郡大矢野町(現:上天草市)出身。小学生の頃から野球を始め、投手として活躍。大矢野中から1967年、八代第一高等学校(現:秀岳館高等学校)に進学。親元を離れ、寮生活をしながら野球に取り組んだ。1年時はオーバースローであったが後に当時の野球部監督の勧めでアンダースローに転向する。これにより、見違えるように制球力が上昇。1969年、3年生の時には夏の甲子園県予選を勝ち抜き、中九州大会に進出。準決勝で前年の大分県代表だった津久見高の2年生エース浜浦徹に投げ勝ち、決勝に進む。決勝で大分商に敗退し甲子園出場は実現しなかったが、地元マスコミから“八代第一に小林あり”と呼ばれるほどの活躍を見せた。 1970年、野球の才能を買われて愛知学院大学へ進学。愛知大学野球リーグでは1973年春季リーグで8勝を挙げ、チーム10季ぶりの優勝に貢献、最優秀選手に選ばれた。直後の全日本大学野球選手権大会でも決勝に進出、中大の田村政雄と投げ合うが敗退、準優勝にとどまる。同年の第2回日米大学野球選手権大会日本代表にも選出された。リーグ通算43試合に登板し21勝6敗、防御率0.93。大学同期に外野手の迫丸金次郎がいた。即戦力の右投げアンダースロー投手として評価され、プロのスカウトからも注目されていた。
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