クラブチームの勃興期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 14:13 UTC 版)
「クラブチーム (社会人野球)」の記事における「クラブチームの勃興期」の解説
クラブチームの歴史は、ほぼ社会人野球の歴史と軌を一にしているといえる。1877年に日本初の野球チームとされる「新橋アスレチックス」が結成された。このチームの選手の多くは工部省鉄道寮新橋鉄道管理局の職員であったというが、それ以外の者もメンバーとして入っていた上、新橋鉄道管理局公認の活動とはされていなかったことから、このチームはクラブチームの側面を持っていたともいえる。 20世紀に入ると、国内の野球人気をまず最初に担ったのは学生野球、特に大学野球であった。東京六大学野球連盟を中心として、各地方に大学野球リーグが設立され、人気選手が新聞の紙面をにぎわすようになっていった。しかし、大学には在学期間があり、どんなスター選手でも4年すればチームを去ってゆく。その受け皿として各地方にクラブチームが結成され、単発的に行われるクラブチーム同士の対戦が学生野球時代からのファンを集めていた。 しかしながら、いわば早慶戦のような、クラブチーム同士の定期戦が行われることはなく、学生野球界のスター選手も大学を卒業すると野球をやめる者が多く、クラブチームに進んだ者であっても、全国的に活躍を知られるようなことはなかった。 早大野球部第2代主将である橋戸信も大学を卒業して毎日新聞社(当時「東京日日新聞」)の記者となっていたが、早大時代のアメリカ遠征で、メジャー・リーグのフランチャイズ制度に注目していた。そして会社に、各都市を代表するチーム同士を争わせる野球の全国大会開催を働きかけ、これが認められた。この大会こそ都市対抗野球大会である。このとき、鉄道省の各鉄道局には社員の娯楽として、そして社員の士気・愛社精神向上のために企業チームができていたが、当時学生野球以外のチームはクラブチームが大半であった。橋戸は約1年をかけて全国を歩き回り、目立った活動を行っていたクラブチームの関係者、そして鉄道局のスタッフを説得し、1927年(昭和2年)に第1回全日本都市対抗野球大会を開催した。都市対抗野球の最優秀選手は、この橋戸の功績をたたえて「橋戸賞」として表彰されている。 この大会は橋戸の予想通り、大きな反響をもって受け入れられた。大学野球時代のスターが再び神宮球場に集まりプレーを披露するとして、全国の野球ファンが注目する大会となった。実際、第4回大会からはNHKラジオによる全国中継が行われたほか、第9回大会では皇族が貴賓席で準決勝を観戦するなど、「労働スポーツの花形大会」として受け入れられた。まだ企業チームが鉄道・石炭・製鉄業界以外になかったこの時代では、クラブチームが企業チームを凌駕することは日常であり、まだプロ野球が「職業野球」としてさげすまれていた時期でもあったことから、大学野球の名選手も、いわば「セミプロ」の企業チームに入るよりも、クラブチームに入ることをよしとしていた傾向が見られる。例えば第8回全日本都市対抗野球大会を制した全大阪は、東京六大学の花形選手である三原脩(早大出身、のちプロ野球監督)、牧野直隆(慶大出身、のち高校野球連盟会長)を擁していた。
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