腰本寿とは? わかりやすく解説

こしもと‐ひさし【腰本寿】

読み方:こしもとひさし

[1894〜1935]野球選手監督ハワイ生まれ慶大内野手として活躍後、大阪毎日新聞社入社し大毎球団主将となる。大正15年(1926)母校慶大監督就任黄金時代築いた


腰本寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 00:09 UTC 版)

腰本 寿
基本情報
国籍 日本
出身地 ハワイ共和国 ハワイ島
生年月日 (1894-11-03) 1894年11月3日
没年月日 (1935-04-27) 1935年4月27日(40歳没)
選手情報
ポジション 二塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 慶應義塾普通部
  • 慶應義塾大学
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1967年
選出方法 特別表彰

腰本 寿(こしもと ひさし、1894年11月3日 - 1935年4月27日)は、日本野球選手・監督。

来歴・人物

ハワイ島生まれの日系二世[1]本籍地広島県[2]小学校卒業後、1908年慶應義塾大学野球部がハワイ遠征を行なった際、マネージャーの鷲沢与四二に目をつけられ、日本に連れて来られる[1]。学費を支給してもらい慶應義塾普通部慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。慶應普通部から大学まで二塁手として活躍した。

1916年に慶應義塾普通部野球部を指揮し、第2回全国中等学校優勝野球大会において優勝に導く。1921年大阪毎日新聞社(現:毎日新聞社)支那課に勤め、大毎野球団主将として、無敵大毎の名をほしいままにした。復活早慶戦での慶応惨敗後、野球部OBからの緊急動議により[1]1925年暮れ、慶應義塾大学野球部の監督となり、1934年12月18日に病気引退するまでの9年間、腰本式と称される戦法と選手養成とをもって黄金時代を築き、「和製マグロー」と称された[1]

1935年、大毎運動部顧問として復帰したが、同年4月27日に死去。1967年野球殿堂入り。

関連書籍

  • 野球(1915年、扶桑社
  • 米国遠征記(1929年、大岡山書店)
  • 私の野球(1931年、三省堂 / 復刻版:1978年、恒文社

脚注

  1. ^ a b c d 菅野真二『ニッポン野球の青春 -武士道野球から興奮の早慶戦へ』、大修館書店、2003年、p186
  2. ^ 『スポーツ人國記』、ポプラ社、1934年、p.70.

関連項目

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