社会人・プロ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 14:22 UTC 版)
慶大卒業後は、パラマウント映画や東京白木屋に籍を置くかたわら1931年にクラブチーム・東京倶楽部に加入し、投打の中軸として都市対抗野球大会で3度の優勝をもたらす(第5回、第7回、第9回)。1931年に大リーグ選抜が来日した際は、投手として、全日本チームのメンバーに選ばれた。 1936年、結成したばかりの阪急軍に入団し、背番号1を着けた。大学卒の月給が60円だった当時、巨人軍に入団した三原修の契約金が2000円だったことで世間は大いに驚いたが、宮武はその倍以上の5000円という破格の額で契約した。宮武に最初に声をかけたのは東京セネタースで、ほぼ入団が決まっていたが、慶大時代に腰本寿監督の下でマネージャーを務めていた村上実が阪急百貨店勤務から阪急初代球団代表に抜擢されたことから阪急側が巻き返し、契約に至ったということである。 阪急の初代主将に任命された宮武は、学生時代と変わらず投手のかたわら強打者として活躍。入団1年目の1936年には打率.355、1937年には本拠地・西宮球場で球場史上初の本塁打を放った。投手としても現役最後の1938年には春秋通算で9勝を挙げている。 戦後は駒沢大学や、専売公社など実業団クラブの監督などを務めた。1956年に狭心症のため49歳で急死。 1965年、生前の功績が認められ、「特別表彰」として野球殿堂入りした。 娘は、同じく後に野球殿堂入りした小山正明に嫁いでいる。
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