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三原脩

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 06:13 UTC 版)

三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)出身のプロ野球選手内野手、右投右打)・監督球団経営者


  1. ^ このホームスチールは、6回裏に慶応義塾大学が2-2の同点に追いついた直後の7回表、2死満塁の場面で三原が実行したものである。ちなみに、この試合は伊達正男が3日連続で登板して勝ち点を挙げた「伊達の3連投」として有名な試合で、ホームスチールは左打者を打席に迎えた場面で企てたものである。通常、左打者が打席に入れば三塁走者の動きは捕手からは丸見えとなるばかりか、投手は右投げの水原であり、通常はホームスチールなど考えられない場面である。そのため、早稲田大学の初代監督だった飛田穂洲から「定石外れの暴挙」と痛烈な批判を浴びせられたが、三原は堂々と反論し、後の片鱗を見せた。
  2. ^ 当時の早稲田大学野球部内では、学生結婚は好ましく思われていなかった。
  3. ^ 当時は前後期制で、前期の優勝球団と後期の優勝球団が年度王者を賭けて対戦する優勝決定戦が存在した。
  4. ^ 第二次世界大戦での「新聞統制」によって読売と報知新聞社が合併していたが戦後になって再分離された。この際に三原の籍が旧・報知新聞から読売へ移されていた。
  5. ^ ただし全選手が三原の排斥に賛同していたわけではなく、例えば川上哲治は三原派で「(水原監督の)1年目(1950年)は水原さんとは仲良くなかった」と語っている。
  6. ^ その後、1979年西本幸雄近鉄バファローズ)、2013年星野仙一東北楽天ゴールデンイーグルス)も達成している。
  7. ^ セントラル・リーグおよびパシフィック・リーグの両方で日本シリーズを制したことがある監督は、他に水原茂広岡達朗がいる。
  8. ^ この時代のプロ野球では、三原をはじめ多くの監督は現在のコーチボックスで指揮を執っていた。
  9. ^ 10月11日からの日本シリーズに合わせ、公式戦を早く消化するように変則ダブルヘッダーが組まれた。第2試合は川崎が本拠地である「大洋-中日」、第一試合が「ヤクルト-中日」だった。
  10. ^ 元は「死に馬が屁を放る」で、「死に馬に蹴られた」とは三原の造語である。
  1. ^ 真のライバル 3 (もう一人の水原)〈徒然想 2010年4月8日記事〉
  2. ^ “巨人軍年表”. 読売巨人軍公式サイト. https://www.giants.jp/G/museum/g_history/ 2022年11月12日閲覧。 
  3. ^ 『野球殿堂 1959-2009』P77
  4. ^ 『巨人軍の男たち』45頁
  5. ^ 『巨人軍の男たち』44頁
  6. ^ 【プロ野球仰天伝説89】バットを持って審判室へ。その後、罰金処分に怒って退団した三原脩【怒れる男たち】週刊ベースボールONLINE2018年03月22日
  7. ^ 残された南海との遺恨 「ぽかり事件」で無期限出場停止/三原脩氏編4”. 日刊スポーツ (2021年12月10日). 2021年12月10日閲覧。
  8. ^ 参考:三原脩が監督を務めた時代の年表 ※『ライオンズ・クラシック 2011』(埼玉西武ライオンズホームページ内)より。
  9. ^ a b 中川淳一 (2012年1月10日). “三原「修→脩」 名監督の改名は筋書きのないドラマ”. NIKKEIリスキリング. 日本経済新聞社. p. 2. 2023年10月16日閲覧。
  10. ^ 中川淳一 (2012年1月10日). “三原「修→脩」 名監督の改名は筋書きのないドラマ”. NIKKEIリスキリング. 日本経済新聞社. p. 1. 2023年10月16日閲覧。
  11. ^ 「西鉄・三原監督、辞任騒動」週刊ベースボール別冊 よみがえる1958-69年のプロ野球 [Part1] 1958年編 ルーキー・長嶋茂雄、球界席巻! ベースボール・マガジン社.2023年.P26
  12. ^ 読売新聞1967年10月4日9面「三原監督が退陣表明 『来シーズン、大洋と契約しない』」読売新聞1967年10月p89
  13. ^ 読売新聞1967年10月5日10面「三原監督の辞任了承 別当ヘッドコーチが代理監督に」読売新聞1967年10月p118
  14. ^ 読売新聞1967年11月7日11面「三原近鉄監督正式に就任」読売新聞1967年11月p187
  15. ^ 読売新聞1968年11月9日11面「三原監督、退団申し入れ」読売新聞1968年11月p259
  16. ^ 週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、松岡弘が語るヤクルト初優勝までベースボール・マガジン社、2011年、P41
  17. ^ 週刊現代2016年12月31日号、p129
  18. ^ 追悼・中西太「オリックス時代は、どういうバッターにどういう指導をすればいいかが分かっていた。ワシの指導者人生の集大成と言っていいのかもしれん」/追悼・中西太週刊ベースボール
  19. ^ 『野球殿堂 1959‐2009』、『コトバンク』内掲載記事「三原脩」(ソース:『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『デジタル大辞泉』)ほか
  20. ^ 三原脩『勝つ 戦いにおける“ツキ”と“ヨミ”の研究』サンケイ新聞社、1973年、114-116頁。 
  21. ^ a b 【9月22日】1962年(昭37) 三原監督、ルール守ってアテ馬7人 エースも三塁守らせる”. スポーツニッポン (2007年9月22日). 2012年12月27日閲覧。
  22. ^ 『南海ホークスがあったころ』
  23. ^ NHK教育テレビジョン知るを楽しむ 「個性がプロ野球を救う」』における、佐々木のコメントより。
  24. ^ 玉木正之『プロ野球大事典』新潮文庫1938年秋の中島治康の三冠王は1965年になって認定された
  25. ^ 中川淳一 (2012年1月10日). “三原「修→脩」 名監督の改名は筋書きのないドラマ”. NIKKEIリスキリング. 日本経済新聞社. p. 3. 2020年10月22日閲覧。


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