三原ポカリ事件
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三原ポカリ事件(みはらポカリじけん)は、1949年(昭和24年)4月14日の日本プロ野球公式戦において、読売ジャイアンツ監督の三原脩が、対戦相手である南海ホークスの捕手・筒井敬三を殴打した事件の俗称である。
経緯
日本プロ野球が1リーグ制だった1949年、南海ホークスのエース投手だった別所毅彦が読売ジャイアンツに引き抜かれる「別所引き抜き事件」が発生し、その影響から同年4月12日からの巨人-南海戦(後楽園球場)は殺伐とした雰囲気の中で行われた。
第3戦の4月14日は巨人が1点をリードしたまま9回表に南海の攻撃を迎えたが、無死一塁で南海の打者・岡村俊昭が放った打球は巨人の一塁手・川上哲治の前に転がる。併殺を狙って川上が二塁に送球し、南海の一塁走者・筒井敬三がフォースアウトとなり、遊撃手・白石勝巳が一塁へ転送しようとした時、一塁走者の筒井が白石に組み付くように滑り込んだため、体勢を崩した白石は一塁に送球することが出来ず、併殺とはならなかった。このプレーを巡って白石と筒井は口論となり、巨人ベンチを飛び出した監督の三原が筒井の守備妨害を塁審・津田四郎に主張したが認められなかった。三原は引き下がろうとするも、依然として口論を続けていた白石と筒井を見た三原は自身を抑えられず、後ろから筒井の頭を殴打した。
翌日の新聞には「日本野球空前の不祥事」として報道され[1]、この事件で三原は無期限の出場停止処分を受けた。三原の出場停止期間中は中島治康が選手兼任で監督代行を務めたが、周囲の救済運動によって三原は出場停止100日間に減ぜられ、同年7月23日に復帰した。
脚注
- ^ 「球場で乱闘 巨人の三原 南海の筒井を殴る」『日本経済新聞』昭和24年4月15日3面
参考文献
『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.21 - 22 (田村大五執筆)
関連項目
三原ポカリ事件
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巨人に復帰すると、田中資昭に替わって正遊撃手となり前半戦は上位打線を任される。しかし、1年間のブランクもあって打撃の調子が上がらず、後半は下位打線に回り田中と併用されるなどして.219の低打率に終わった。翌1949年はシーズンを通して千葉茂と1・2番コンビを組んで、千葉121得点(リーグ2位)、白石94得点(リーグ8位)と2人で215得点を挙げ、巨人の戦後初優勝に貢献した。 この年、南海の大黒柱・別所引き抜き事件に端を発する「三原ポカリ事件」が起きるが、この事件のきっかけを白石が作っている。別所引き抜きの遺恨試合となった4月14日の巨人対南海3回戦の9回表4-0と巨人リードの場面で、南海が飯田徳治の本塁打などで1点差に迫る。なお無死一塁で代打・岡村俊昭の当たりは一塁ゴロ、併殺を狙った一塁手・川上哲治の送球を受けた白石が二塁を封殺して一塁へ送球しようとしたところ、一塁走者・筒井敬三に組み付くように滑り込まれ、白石は送球できずに併殺を崩された。「なにしとるんなら!」温厚な白石には珍しく広島弁で怒鳴ったのをきっかけに白石と筒井がやり合い、ベンチから飛び出した監督の三原脩が筒井の頭をポカリと殴った。この事件は大きな問題となって三原はシーズンの残り試合を全て出場停止とする処分が出たが、のち出場停止期間は100日に短縮されている。
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