当初の背番号とは? わかりやすく解説

当初の背番号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 11:59 UTC 版)

読売ジャイアンツ」の記事における「当初の背番号」の解説

戦前巨人軍基本的にニューヨーク・ヤンキース倣って打順によって背番号決めていた。 例え1936年夏季場合、1番・田武雄上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後林清一受け継いだ)、2番津田四郎3番中島治康4番永沢富士雄5番伊藤健太郎までは背番号打順一致する当時巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7筒井修7番背番号8の白石敏男が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の山本栄一郎はさんで捕手背番号10番から始まり10番中山武11番内堀保12番倉信雄続いていた。13番からが投手背番号で、青柴憲一13番)、沢村栄治14番)、畑福俊英15番)と続く。再び16番欠番ヴィクトル・スタルヒン17番)、前川八郎18番)と続いた秋季以降加入した選手ヤンキース方式背番号適用されず、19番田部同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した水原茂が1番に変更して空きとなった20番青森林友から入団したチーム初の左腕投手成田友三郎21番助監督として入団したものの夏季チーム不甲斐なさ現役復帰決意した三原修がつけ、藤本定義監督チーム最大となる22番をつけた。 選手増えたため1938年以降はこの基本から外れることが多くなったが、川上哲治16番をつけたのはヤンキース方式背番号名残で、川上投手として入団した証拠とも言える

※この「当初の背番号」の解説は、「読売ジャイアンツ」の解説の一部です。
「当初の背番号」を含む「読売ジャイアンツ」の記事については、「読売ジャイアンツ」の概要を参照ください。

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