当初の目的と継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 15:06 UTC 版)
「慶應義塾獣医畜産専門学校 (旧制)」の記事における「当初の目的と継承」の解説
日華事変の進展に伴い、教授学生の間に支那大陸(中国大陸)に関する関心がすこぶる高まり、各種の団体が続々、朝鮮、満州、中国本土に旅行するようになったので、義塾では北京および上海に学生のための寄宿舎を設営し、夏季休暇を利用しての現地教育の体制を整えたが、戦局の進むにつれて、学生の大陸渡航の制限が次第に厳しくなり、この企画は十分の成果を挙げ得ない中に中絶のやむなきに至った。軍事教練は年と共に強化され、学校にも一般市民の間にも特設防護団が設けられ、やがて報国隊が結成され、学徒の修業年限は次々に短縮され、学校学徒に関する戦時の特別法令が矢つぎ早に公布され、学校教育の分野は著しく制限され、学徒はあるいは戦場にあるいは生産増強に動員されて、遂には学窓にとどまる老は少数の特殊の研究者か身体の虚弱で軍務にも勤労にも適しない老のみとなった。義塾はこの間に在って、一時的に学生数は減じても、国家百年のために学問研究の体制の維持充実をゆるがせにすべからずとなし、1942年に学事振興資金を設置し昭和19年にはさらに資金募集に着手し、一方においては語学研究所を興してこれに外国語学校を付設し、文筆奨励、法学奨励の両委員会を設け、亜細亜研究所を新設した。さらに大陸および南方の農業開発を目指して大学に農学部を増設しようとしたが、時局の緊迫は容易にこの案の実現を許さず、原案は再転三転して僅かに獣医畜産専門学校の設立として当初の計画の一部を実現し得たに過ぎなかった。しかし一方で農学研究所を設立して、実習農場を設けて他日のために備えるところがあった。 戦後の教育制度の改革により1947(昭和22)年から生徒募集を停止し、1948年に慶應義塾農業高校に転換。1949(昭和24)年3月、3期生の卒業をもって廃校となった。獣医畜産専門学校の卒業生は356名、うち6分の1は獣医師として社会に貢献している。彼らの同窓会は「蟹ケ谷三田会」と称している。
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