当初の法的地位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 16:16 UTC 版)
この時期のDAFには根本法もなく、その法的立場はきわめてあいまいであった。ナチス時代の労使基本法である「国民労働秩序法」(1934年1月20日)でもDAFについてはほとんど言及されておらず、明示された権限もきわめてわずかであった。この状況を打開するため、ライは総統アドルフ・ヒトラーに働きかけ、10月24日に「DAFの本質と目的についての総統命令」を発出させた。しかしライが関係各所に諮らなかったため、この命令には関係省庁大臣の副署もなく、正規の官報には掲載されなかった。しかもこの命令でDAFは労使関係において独占的な調停者の地位を与えられたが、これは国民労働秩序法の規定(調停は労働管理官が行う)と明確に矛盾していた。しかしヒトラーは命令の撤回を拒絶し、DAFは総統命令、官庁や産業界は国民労働秩序法を盾に、調停の権限を争うこととなった。この状況は1935年3月のライプツィヒ協定成立まで続いた。 また、総統命令ではDAFは独自の法人格を持たない党の「分肢」とされていたが、1935年3月29日の「党と国家の統一を保障するための法律」施行細則で、DAFはナチ党の外部にあり、独自の資産と法人格をもつ付属団体(angeschlossener Verband)として再定義された。しかしこの法律でナチ党は「公法団体」と定義されたが、DAFの存在が公法団体かどうかは不明確であった。公法団体と明確化されればDAFは監督官庁の指揮下に入らざるを得ず、DAFの独立性を求めるDAF指導部と、党指導部には受け入れられなかった。このためDAFは公法団体ではないという路線を貫き、1936年12月16日に全国労働裁判所は「DAFは公法団体ではないが、そのことは公的任務を果たすというDAFの目的に影響することはない」という判決を下している。
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