当初の植民地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
「スペイン領テキサス」の記事における「当初の植民地化」の解説
詳細は「フランス領テキサス」を参照 1519年にアロンソ・アルバレス・デ・ピネダがテキサスの領有権を主張していたが、この地域は17世紀後半まで大半がスペインの手を付けないものになっていた。1685年、フランスがヌエバ・エスパーニャとフロリダの間のどこかに植民地を1つ設立したことをスペインが知った。フランスの植民地はスペインの鉱山や通商路の脅威になると考え、スペイン王カルロス2世の戦略会議は「アメリカの心臓部に突き出てきたこの棘を除去するためにスペインは迅速な行動を取る必要がある。行動が遅れれば遅れるほど、行動の困難さが大きくなる」と推奨した。スペインはどこに行けばラ・サールを見つけられるか分からず、1686年に海からの1隊と陸からの2隊の遠征隊を送り植民地を突き止めようとした。これらの遠征隊はラ・サールを見つけられなかったが、リオ・グランデ川やミシシッピ川の間の地域を隈なく探した。翌年にはさらに4つの遠征隊が出て、ラ・サールを見つけられなかったが、スペインにとってメキシコ湾岸地域の地形を理解するには役立った。1688年、スペインはさらに海から2隊、陸から1隊の遠征隊を派遣した。アロンソ・デ・レオンが指揮した陸の遠征隊がフランス植民地から脱走してテキサス南部でコアウイルテカン族と住んでいたジャン・ゲリーを発見した。デ・レオンはゲリーを通訳と案内人に使って1689年4月に遂にフランスの砦を発見した。砦はカランカワ族によって破壊されていた。デ・レオンの遠征隊はトリニティ川とレッド川の間の地域に住んでいたカド族の代表とも会った。カド族はキリスト教を学ぶことに興味を示した。 デ・レオンはその発見したことの報告書をメキシコシティに送り、「即座に楽観論を生み、宗教的熱心さを速めることに」なった。スペイン政府は、フランス植民地の破壊が「神の『恩恵と助け』の証し」だと確信した。デ・レオンの報告書ではリオ・グランデ川、フリオ川およびグアダルーペ川沿いに砦を建設し。テキサス東部にいるスペイン人が「テハス」と呼ぶハシナイ族インディアンの中に伝道所を設立することを推奨していた。カスティーリャのスペイン語ではこの「テハス」(Tejas)が音声的に同音である「Texas]と書かれることが多く、これが将来の州の名前になった。 ヌエバ・エスパーニャの副王は伝道所の設立は承認したが、ヌエバ・エスパーニャが慢性的に資金不足になっていたことが主な理由で砦の建設というアイディアは拒否した。1690年3月26日、デ・レオンは100名の兵士と数人の宣教師と共に出発した。この集団はまずサンルイ砦に立ち寄ってそれを焼き尽くし、その後にテキサス東部に進行した。5月遅くに、テハスの聖フランシスコ伝道所がハシナイ族インディアンのナベダチェス集落近くに完成し、6月1日には最初のカトリック教会ミサが行われた。宣教師達は規則に従わない兵士達が伝道所近くに留まることを認めず、デ・レオンがその年遅くにメキシコに戻ったとき、100名いた兵士のうち僅か3名が僧侶達を支援するために残った。伝道所の指揮を執ったダミエン・マサネット神父が伝道所の北に住んでいる部族に会うために6月2日にそこを離れ、その後に14人の神父と7人の平修士の追加を要請するためにメキシコに戻った。 1691年1月23日、スペインはテキサスの初代知事としてドミンゴ・テラン・デ・ロス・リオス将軍を指名した。テランは全部で7カ所の伝道所、2つはテハス族に追加し、4つはカドハドチェス族の中、1つはグアダルーペ川に近い部族に設立するのを手伝うよう命令された。テランは修道士10人と平修士3人を徴募できただけだった。その遠征隊は1691年8月に既にある伝道所に到着し、そこにいた神父達が聖フランシスコ伝道所の東5マイル (8 km) に2番目の伝道所サンティスモ・ノンブル・デ・マリアを設立していたのを知った。神父達の1人が既に死んでおり、残った2人に伝道所の運営を預けていた。インディアンは度々伝道所の牛や馬を盗み、横柄になり始めていた。食料が尽き掛けていたので、テランはそれ以上伝道所を造らないことにした。テランがその年遅くにテキサスを離れるとき、宣教師団の大半は彼と共に戻ることを選び、伝道所には3人の宗教人と9人の兵士だけが残った。 この集団は天然痘も残していった。インディアンにはこの病気に対する生来の免疫力が無く、当初は洗礼水を疫病流行の原因と非難した。先住民数千人が死んだ後、生き残った者達は伝道所に対抗して蜂起した。1693年、カド族はフランシスコ会宣教師達にこの地域から立ち去らないと殺されると警告した。宣教師達は鐘を埋め伝道所を焼き払ってメキシコに戻った。スペインがテキサスに入植するという最初の試みは失敗したが、スペインにとって、テキサスの地形、川および海岸線に関する知識を増やし、政府は「インディアンの中でも最も従順な者でも」「強制と説得の組合せで」改宗させるのがやっとだと確信した。その後の20年間、スペインはサイドテキサスを無視していた。
※この「当初の植民地化」の解説は、「スペイン領テキサス」の解説の一部です。
「当初の植民地化」を含む「スペイン領テキサス」の記事については、「スペイン領テキサス」の概要を参照ください。
- 当初の植民地化のページへのリンク