当初の民族解放運動と新民会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:30 UTC 版)
「朝鮮独立運動」の記事における「当初の民族解放運動と新民会」の解説
「新民会 (1907年)」を参照 韓国併合で大韓帝国が有する主権が大日本帝国に移管されると、これにより特権を奪われた両班や民族主義者等が朝鮮独立運動を行った。朝鮮総督府の憲兵警察制度による武断統治時期には、抗日運動は言論の自由・結社の自由と共に厳しく取り締まられた。このことから、朝鮮半島内では秘密結社形態の抗日運動が展開されたが、当初は主に独立運動基地の建設に重きが置かれていた。特に、李氏朝鮮時代末期に高宗が退位させられた後に結成された新民会は、愛国啓蒙勢力等が主軸となり、西間島の三源堡に建てられ、朝鮮の独立運動史に多大な影響を及ぼすこととなった新興講習所(新興武官学校の前身)設立の基本となった。しかし、新民会は安岳事件や105人事件などによって、ほどなく解散させられることとなった。なお、新民会以後に結成された独立運動団体のほとんどは、共和制を主張することとなった。 新民会以外にも、満州に武官学校を設置する資金募集を行うため1915年に大邱で作られた大韓光復会や、独立運動の資金調達とその資金の海外への送付を行うために1913年に平壌の崇義女学校で作られた松竹会などが存在した。
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