上田利治とは? わかりやすく解説

うえだ‐としはる〔うへだ‐〕【上田利治】

読み方:うえだとしはる

[1937〜2017プロ野球選手監督徳島生まれ昭和34年1959広島入団25歳のときにコーチとなり、同49年から15年間、阪急オリックス前身)の監督務めた。のち日本ハム監督就任監督として通算1322勝を記録


上田利治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/07 01:49 UTC 版)

上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日[1])は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身のプロ野球選手捕手)・コーチ監督解説者評論家


注釈

  1. ^ 日本ハムはこの頃、終盤で最大9連敗していた。

出典

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  18. ^ 毎日新聞1996年9月12日26ページ 「娘2人が統一教会入信 休養の上田・日本ハム監督 辞意を表明」
  19. ^ 福本、2014年、p.127
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  34. ^ 当時、日本ハムの背番号「30」は金子誠が着用していた。
  35. ^ 福本豊『走らんかい!』98頁
  36. ^ 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』131頁
  37. ^ 浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 下』227頁
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  40. ^ 上田利治さんをしのぶ、“上田野球の申し子” 大橋穣さんが思い出語った”. スポーツ報知 (2017年12月26日). 2023年4月19日閲覧。
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上田利治

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ササキ様に願いを」の記事における「上田利治」の解説

日本ハムの元監督背番号88

※この「上田利治」の解説は、「ササキ様に願いを」の解説の一部です。
「上田利治」を含む「ササキ様に願いを」の記事については、「ササキ様に願いを」の概要を参照ください。

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