うえだ‐としはる〔うへだ‐〕【上田利治】
上田利治
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上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日[1])は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
注釈
- ^ 日本ハムはこの頃、終盤で最大9連敗していた。
出典
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- ^ 福本豊の『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』では、西本は「一軍の試合を一切見ない」という条件でのフロント入りを拒否したが、辞任の際に後任について何も言わず、その後にオーナーの森薫から相談を受けて上田を推薦した、と記されている(同書pp.65 -66)。
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- ^ 当時、日本ハムの背番号「30」は金子誠が着用していた。
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- ^ “上田利治さんをしのぶ、“上田野球の申し子” 大橋穣さんが思い出語った”. スポーツ報知 (2017年12月26日). 2023年4月19日閲覧。
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上田利治
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