保井浩一とは? わかりやすく解説

保井浩一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/21 11:33 UTC 版)

保井 浩一
1956年
基本情報
国籍 日本
出身地 京都府京都市
生年月日 (1921-07-19) 1921年7月19日
没年月日 (2001-11-17) 2001年11月17日(80歳没)
身長
体重
168 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1950年
初出場 1950年
最終出場 1951年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 2001年11月17日)は、京都府出身のプロ野球選手監督

来歴・人物

平安中学では1938年夏の甲子園決勝でサヨナラ安打を放って初優勝をもたらすなど、勝負強い打者であった[1]

卒業後は立命館大学専門部法科を経て、中央倉庫、満州電電、京都大丸で活躍。

その後は復活に手間取った母校・平安高の監督を務め[1]1949年には戦後初の甲子園出場(春と夏)に導くなど[2]、チーム育成に手腕を発揮[1]

平安の監督を勇退した後、知り合いの勧めで東急フライヤーズのキャンプに参加、選手登録されないままいきなりオープン戦に代打で起用され、安打を打ったことで採用が決まり、1950年に東急へ入団[1]。1年目の同年は3月12日大映戦(藤井寺)で初出場[2]を果たすと、同16日西鉄戦(大須)では4番手投手として、0-14となった4回表の途中から登板し、最後まで投げ切った。プロ初本塁打を放った5月31日毎日戦(市川国府台)で1試合3本塁打の離れ業を演じるが、これは新人2人目、パ・リーグ史上初の1試合3本塁打でもあった[2]内野手として主に一塁・三塁を守って87試合に出場し、打率.280、9本塁打を放つ活躍を見せたが、1951年に僅か2年で現役を引退。

引退後の1955年には東映の監督に就任。シーズンはトンボと共に南海西鉄による優勝争いから実に40ゲーム以上も離され、9月13日に対戦したダブルヘッダー第2試合では7回表に先発の樽井清一が2-5と3点を追うトンボに2死から攻められ、満塁のピンチを招く[1]。樽井はマウンド上からしきりとベンチの方を見て、帽子を取っては汗を拭い、マウンドに座り込んだりしながら苦しそうな顔をした[1]。この年、完投が1度もない樽井は100球以上投げ、既に握力はなくなり、指先は痺れ、顔を交代を訴えていたが、ベンチから誰一人出てこなかった[1]。保井も樽井と視線を合わせないようにし、ブルペンで投球練習をしている投手もいなかった[1]。険悪な雰囲気の中で無安打であったトンボの2番・前川忠男が三遊間を破る安打で2者が生還して1点差に詰め寄られると、ようやく保井が重い腰を上げ、リリーフに寺川昭二を投入したが、すでに流れは変わっていた[1]。この日、3二塁打と大当たりの3番・石川進に当時のパ・リーグ記録に並ぶ1試合3本の二塁打を打たれ、東映は逆転を許す[1]。試合はこのまま終わってトンボが勝利し、翌日の新聞各紙は保井の“投手交代拒否”をこぞって取り上げ、9月15日スポーツニッポンには「”敗戦監督”保井!」の見出しが躍った[1]。最下位こそ逃れたものの、この投手交代事件で選手との溝を深まり、大川博オーナーの耳にまで達すると、1年で解任された[1]

解任後の1956年からは岩本義行監督の下で二軍監督に就任[1]。二軍監督時代はファームでくすぶっていた軟式出身の土橋正幸を3年目で一本立ちさせ、東映のエースに成長させた[1]

1960年には代理監督を務め、7月19日の大毎戦(駒澤)では3-1の8回2死満塁で土橋がフルカウントから大毎の4番・山内和弘に投げた球がストライクとコールされたが捕手が後逸し、捕手がボールを拾いに行こうとした際に、保井は「チェンジだ」と選手全員をベンチに引き揚げさせた[2]。本来、第3ストライクを捕手が捕球できなかった場合「2死で走者があるときは、打者にタッチするか、一塁に送球しなければ打者はアウトにならない」が、「無死か1死で一塁に走者がいる場合は打者アウト」になる規則と混同[2]。その間に3人の走者に加え、打者走者の山内まで無人のダイヤモンドを回って逆転[2]。4点が入った後、勘違いに気付いた保井だが、1時間近くの抗議も無論認められず、前代未聞の「三振振り逃げで満塁一掃」が記録された[2]

1961年から1962年には大洋ホエールズ二軍監督として三原脩監督に仕え[1]1963年からはスカウト部長の任に着いて関西地区を担当。秋には母校の後輩で2年生の衣笠祥雄に「今すぐ大洋に来ないか」と誘ったが、その時の衣笠は全然その気がなかったという[3]

1965年に東映で4年コンビを組んだ岩本が監督に就任した近鉄バファローズに保井もコーチとして移籍し、近鉄退団後は滋賀県で割烹旅館の経営をしていた[1]

2001年11月17日、心不全のため死去。享年81(80歳没)。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1950 東急 87 258 243 29 68 9 1 9 106 30 1 3 2 -- 13 -- 0 30 7 .280 .316 .436 .753
1951 55 105 99 7 25 3 1 1 33 13 1 0 0 -- 6 -- 0 12 5 .253 .295 .333 .629
通算:2年 142 363 342 36 93 12 2 10 139 43 2 3 2 -- 19 -- 0 42 12 .272 .310 .406 .717

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1950 東急 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 28 5.2 12 1 3 -- 0 3 0 0 7 6 9.00 2.65
通算:1年 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 28 5.2 12 1 3 -- 0 3 0 0 7 6 9.00 2.65

背番号

  • 10 (1950年 - 1951年)
  • 30 (1955年)
  • 40 (1956年 - 1960年)
  • 31 (1961年 - 1962年)
  • 70 (1965年 - 1966年)
  • 60 (1967年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 【9月13日】1955年(昭30) “敗戦監督”保井!マウンドからのシグナル無視して逆転負け”. SPORTS NIPPON NEWSPAPERS. 2011年10月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 【記録の泉】61年前の珍事!前代未聞「三振振り逃げで満塁一掃」 - サンスポ”. www.sanspo.com. 2025年9月21日閲覧。
  3. ^ 2014年8月8日付のスポーツニッポン、衣笠祥雄「我が道」より

関連項目





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