1955年の東映フライヤーズ では、1955年の東映フライヤーズ の動向をまとめる。
この年の東映フライヤーズは、保井浩一 が1年だけ監督を務めたシーズンである。
概要
当年及び近年のシーズン成績
年
成績
リーグ
勝
敗
分
率
平均得点
平均失点
開幕時監督
1955
レギュラー敗退
7位
51
89
3
.364
1954
レギュラー敗退
7位
52
86
2
.377
1953
レギュラー敗退
6位
50
67
3
.427
1952
レギュラー敗退
6位
49
59
0
.454
1951
レギュラー敗退
6位
38
56
8
.404
1950
レギュラー敗退
6位
51
69
0
.425
安藤忍
1949
レギュラー敗退
7位
64
73
1
.467
4.06
5.07
井野川利春
1948
レギュラー敗退
5位
59
70
11
.457
3.18
3.90
苅田久徳
1947
レギュラー敗退
6位
51
65
3
.440
2.97
3.59
苅田久徳
1946
レギュラー敗退
5位
47
58
0
.448
3.97
4.74
横沢三郎
1945
太平洋戦争 の戦況悪化により休止
チームは本拠地を1953年 に当時の親会社・東急電鉄 が建設した駒澤野球場 へ移転し、1954年 には球団経営が東急子会社の東映に委託された。前年7位からの脱却を図るチームだが、この年も開幕から負けが込み4月は首位の南海 に10ゲームも離される最悪の形でスタート。5月には一時最下位に転落するなど、6月まではトンボ (この年トンボ鉛筆 がスポンサーとなっていた)や大映 との最下位争いが続いた。夏場以降はトンボとのゲーム差を広げて辛うじて最下位を免れたものの、東急時代からのチーム低迷はこの年も続き最終的に優勝の南海に39ゲーム、4位の阪急 に29ゲームも引き離される惨敗で全日程を終了。シーズン終了後、保井監督は1年で辞任しプロ野球草創期からの強打者・岩本義行 が選手兼任で監督に就任。岩本監督は後に多くの名選手を育て、1959年 のAクラス入り、そして1962年 の東映初優勝の土台を作ることになる。
レギュラーシーズン
1955年パシフィック・リーグ順位変動
順位
4月終了時
5月終了時
6月終了時
7月終了時
8月終了時
9月終了時
最終成績
1位
南海
--
西鉄
--
南海
--
西鉄
--
南海
--
南海
--
南海
--
2位
西鉄
0.5
南海
1.5
西鉄
2.0
南海
0.0
西鉄
2.5
西鉄
4.5
西鉄
9.0
3位
毎日
1.5
毎日
4.5
毎日
4.5
毎日
9.0
毎日
10.0
毎日
11.5
毎日
14.0
4位
阪急
7.5
阪急
10.0
近鉄
14.0
阪急
11.0
阪急
13.5
阪急
18.0
阪急
19.0
5位
近鉄
9.5
近鉄
10.5
阪急
14.5
近鉄
19.0
近鉄
26.5
近鉄
28.0
近鉄
39.0
6位
東映
10.5
大映
16.5
東映
23.0
大映
29.0
大映
34.0
大映
41.5
大映
46.0
7位
トンボ
12.0
トンボ
17.5
大映
23.5
東映
29.5
東映
37.0
東映
44.0
東映
48.0
8位
大映
14.5
東映
18.0
トンボ
26.5
トンボ
34.5
トンボ
44.5
トンボ
51.5
トンボ
57.0
[ 1]
オールスターゲーム1955
できごと
選手・スタッフ
[ 2] [ 3]
表彰選手
出典
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。