1999年の日本ハムファイターズ (1999ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1999年の日本ハムファイターズ の動向をまとめる。
この年の日本ハムファイターズは、上田利治 監督の5年目のシーズンである。
概要
当年及び近年のシーズン成績
年
成績
リーグ
勝
敗
分
率
平均得点
平均失点
開幕時監督
1999
レギュラー敗退
5位
60
73
2
.451
1998
レギュラー敗退
2位
67
65
3
.508
1997
レギュラー敗退
4位
63
71
1
.470
1996
レギュラー敗退
2位
68
58
4
.540
1995
レギュラー敗退
4位
59
68
3
.465
1994
レギュラー敗退
6位
46
79
5
.368
1993
レギュラー敗退
2位
71
52
7
.577
1992
レギュラー敗退
5位
54
73
3
.425
1991
レギュラー敗退
4位
53
72
5
.424
1990
レギュラー敗退
4位
66
63
1
.512
1989
レギュラー敗退
5位
54
73
3
.425
上田監督5年目のチームは、退団したジェリー・ブルックス に代わってマイカ・フランクリン を獲得、ナイジェル・ウィルソン が4月以降ケガで離脱すると、その穴埋めとしてシャーマン・オバンドー が加入するなど外国人が打線の中心になった。春先は2連続完封を含む3試合連続完投勝利を挙げた金村暁 、フランクリンが投打で4月の月間MVPを受賞するなど好調だったが、その金村や抑えを任せていたエリック・シュールストロム が怪我で戦線離脱するなど、故障者が続出。開幕投手も務めた岩本ツトム や関根裕之 は自己最多の勝利を記録し、新人の建山義紀 も6勝をマークしたものの、今関勝 や芝草宇宙 は不振に苦しんだ。打線では両外国人が長打力を発揮、この年一塁のポジションを獲得した小笠原道大 の台頭があったものの、それ以外の選手は好不調の波が激しく、6月には最下位に転落。8月以降は同じく投壊の近鉄 を抜いて5位に浮上したものの、結局2年ぶりのBクラスに終わった。シーズン終了後、責任を取って上田監督は勇退。後任には1994年 まで日本ハムに在籍していた大島康徳 が監督として6年ぶりにチームに復帰することになった。
レギュラーシーズン
[ 2]
1999年パシフィック・リーグ順位変動
順位
4月終了時
5月終了時
6月終了時
7月終了時
8月終了時
最終成績
1位
近鉄
--
ダイエー
--
ダイエー
--
ダイエー
--
ダイエー
--
ダイエー
--
2位
ダイエー
0.5
日本ハム
0.0
ロッテ
2.5
西武
4.5
西武
4.5
西武
4.0
3位
日本ハム
1.0
ロッテ
1.5
西武
6.5
ロッテ
7.0
オリックス
11.0
オリックス
10.5
4位
ロッテ
1.5
西武
オリックス
6.5
オリックス
6.5
ロッテ
12.0
ロッテ
15.5
5位
西武
3.0
近鉄
2.5
近鉄
8.0
近鉄
8.0
日本ハム
14.5
日本ハム
18.5
6位
オリックス
オリックス
3.5
日本ハム
9.5
日本ハム
13.0
近鉄
17.5
近鉄
23.5
オールスターゲーム1999
できごと
選手・スタッフ
監督
コーチ
二軍監督・コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
表彰選手
ドラフト
関連項目
出典
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。