1984年の日本ハムファイターズ (1984ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1984年の日本ハムファイターズ の動向をまとめる。
この年の日本ハムファイターズは植村義信 監督の1年目であり、6月29日に植村に代わって就任した大沢啓二 監督の9年目のシーズンである。
概要
当年及び近年のシーズン成績
年
成績
リーグ
勝
敗
分
率
平均得点
平均失点
開幕時監督
1984
レギュラー敗退
6位
44
73
13
.376
1983
レギュラー敗退
3位
64
59
7
.520
1982
プレーオフ敗退
2位
67
52
11
.563
1981
日本シリーズ敗退
優勝
68
54
8
.557
1980
レギュラー敗退
3位
66
53
11
.555
1979
レギュラー敗退
3位
63
60
7
.512
1978
レギュラー敗退
3位
55
63
12
.466
1977
レギュラー敗退
5位
58
61
11
.487
1976
レギュラー敗退
5位
52
67
11
.437
1975
レギュラー敗退
6位
55
63
12
.466
1974
レギュラー敗退
6位
49
75
6
.395
前年のシーズン終了後に高橋一三 が引退、江夏豊 とトニー・ソレイタ もチームを去り、さらに前年8勝の工藤幹夫 も右肩痛でわずか1試合しか登板できず大幅に戦力ダウンしたチームは5月に入り5連敗で最下位に転落すると5月下旬にも8連敗、6月下旬に3連敗となったところで植村監督が解任、矢頭高雄 ヘッドコーチが2試合監督代行を務めた後、大沢球団常務が任命責任を取る形で監督に復帰した。復帰直後は7試合で5勝2敗と好調で、5位の西武 にあと1ゲーム差と迫った。だが、そこから球団史上最悪の14連敗を喫してしまい日本ハムの1975年 以来9年ぶりの最下位が決定的となった。投手陣も坂巻明 が自己最多の7勝、前年11勝の川原昭二 も江夏の後任として14セーブを挙げたが、2ケタ勝利はゼロでチーム防御率も4.98と最下位だった。打撃陣もルーキーの白井一幸 をはじめ津末英明 などの若手が台頭したが、柏原純一 が打率リーグ最下位、ソレイタの穴埋めとして入団のマーシャル・ブラント も期待外れに終わり、全体的に低調の中トミー・クルーズ が最後まで阪急 のブーマー・ウェルズ と首位打者を争いただ一人気を吐いた。カード別では前年優勝の西武に12勝14敗、5位の南海 に11勝11敗4分と健闘し、全球団負け越しは逃れたが上位陣には大きく負け越した。シーズン終了後に大沢監督がフロント業務に専念し、後任の監督には巨人 OBの高田繁 が就任した。
レギュラーシーズン
1984年パシフィック・リーグ順位変動
順位
4月終了時
5月終了時
6月終了時
7月終了時
8月終了時
最終成績
1位
近鉄
--
阪急
--
阪急
--
阪急
--
阪急
--
阪急
--
2位
阪急
0.5
近鉄
4.0
近鉄
7.0
近鉄
6.5
ロッテ
6.5
ロッテ
8.5
3位
南海
1.0
南海
6.5
ロッテ
7.5
ロッテ
7.0
近鉄
12.5
西武
14.5
4位
西武
2.0
ロッテ
8.5
南海
9.5
南海
11.5
西武
14.0
近鉄
16.5
5位
ロッテ
2.5
西武
9.0
西武
12.0
西武
13.0
南海
20.0
南海
21.0
6位
日本ハム
3.0
日本ハム
14.0
日本ハム
15.0
日本ハム
19.0
日本ハム
25.0
日本ハム
29.5
[ 1]
オールスターゲーム1984
できごと
選手・スタッフ
監督
コーチ
二軍監督・コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
表彰選手
ドラフト
出典
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。