1979年の日本ハムファイターズ (1979ねんのにっぽんハムファイターズ)では、1979年の日本ハムファイターズ の動向をまとめる。
このシーズンの日本ハムファイターズは、大沢啓二 監督の4年目のシーズンである。
概要
当年及び近年のシーズン成績
年
成績
リーグ
勝
敗
分
率
平均得点
平均失点
開幕時監督
1979
レギュラー敗退
3位
63
60
7
.512
1978
レギュラー敗退
3位
55
63
12
.466
1977
レギュラー敗退
5位
58
61
11
.487
1976
レギュラー敗退
5位
52
67
11
.437
1975
レギュラー敗退
6位
55
63
12
.466
1974
レギュラー敗退
6位
49
75
6
.395
1973
レギュラー敗退
5位
55
69
6
.444
1972
レギュラー敗退
4位
63
61
6
.508
1971
レギュラー敗退
5位
44
74
12
.373
1970
レギュラー敗退
5位
54
70
6
.435
1969
レギュラー敗退
4位
57
70
3
.449
前年11年ぶりのAクラス入りを果たしたチームだが、この年は高代延博 とサム・ユーイング 以外目立った戦力補強はなく勝率5割入りを不安視された。しかし、前期は4月に首位の近鉄 に食らいつくなど健闘して3位で終了した。後期はロッテ に抜かれて4位で終了するが、終わってみれば2年連続のAクラスと1972年 以来の勝率5割となった。チーム5割復帰の原動力となった投手陣は前年不振の高橋直樹 が20勝をあげる活躍を見せ、ベテラン高橋一三 をはじめ佐伯和司 ・間柴茂有 ・杉山知隆 に加えてこの年先発入りした宇田東植 が規定投球回に到達したほか、同じくベテランの村上雅則 もリリーフで健闘し、防御率は近鉄と阪急 に次ぐ3位につける。打撃陣では移籍2年目の柏原純一 が前年に引き続いて4番を打ち、富田勝 ・島田誠 の俊足コンビも健在だった。また古屋英夫 が三塁のポジションを不動にしたほか、高代も遊撃手で堅実な守りを見せるなど若手が活躍し、185盗塁は1位だった。が、前年本塁打王のボビー・ミッチェル が成績を落としたほか、30本塁打以上を期待されたユーイングが15本塁打に終わるなど誤算が相次ぎ、近鉄と阪急のマッチレースに割って入れず、チームは両球団に大きく水をあけられた。
レギュラーシーズン
1979年パシフィック・リーグ順位変動
前期
順位
4月終了時
5月終了時
前期成績
1位
近鉄
--
近鉄
--
近鉄
--
2位
日本ハム
3.0
阪急
7.0
阪急
1.0
3位
阪急
3.5
日本ハム
7.5
日本ハム
6.0
4位
ロッテ
5.0
ロッテ
13.5
ロッテ
14.0
5位
南海
7.5
南海
15.0
南海
18.0
6位
西武
11.0
西武
23.0
西武
21.0
後期
順位
7月終了時
8月終了時
後期成績
1位
阪急
--
阪急
--
阪急
--
2位
日本ハム
3.5
ロッテ
3.5
近鉄
2.0
3位
南海
日本ハム
4.5
ロッテ
6.5
4位
ロッテ
4.0
近鉄
7.0
日本ハム
9.0
5位
近鉄
4.5
南海
7.5
西武
9.5
6位
西武
5.5
西武
10.5
南海
12.0
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定[ 1]
オールスターゲーム1979
できごと
選手・スタッフ
監督
一軍コーチ
二軍監督・コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
[ 3]
表彰選手
ドラフト
出典
^ a b c “年度別成績 1979年 パシフィック・リーグ ”. 日本野球機構 . 2017年6月11日閲覧。
^ 日付は公示日。ベースボール・マガジン社刊「ライオンズ60年史―獅子の記憶ー「西鉄」から「埼玉西武」まで」116-117ページ
^ ベースボールマガジン2002夏季号 , ベースボールマガジン社, (2002), p. 124
1940年代
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2020年代
1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。