1971年の東映フライヤーズ (1971ねんのとうえいフライヤーズ)では、1971年の東映フライヤーズ の動向をまとめる。
この年の東映フライヤーズは、田宮謙次郎 監督の2年目(途中就任の前年 を含む)のシーズンである。
概要
当年及び近年のシーズン成績
年
成績
リーグ
勝
敗
分
率
平均得点
平均失点
開幕時監督
1971
レギュラー敗退
5位
44
74
12
.373
1970
レギュラー敗退
5位
54
70
6
.435
1969
レギュラー敗退
4位
57
70
3
.449
1968
レギュラー敗退
6位
51
79
5
.392
1967
レギュラー敗退
3位
65
65
4
.500
1966
レギュラー敗退
3位
70
60
6
.538
1965
レギュラー敗退
2位
76
61
3
.555
1964
レギュラー敗退
3位
78
68
4
.534
1963
レギュラー敗退
3位
76
71
3
.517
1962
日本一
優勝
78
52
3
.600
1961
レギュラー敗退
2位
83
52
5
.615
4.39
3.16
水原茂
この年は開幕2戦目の西鉄 戦で19安打15得点と大暴れしたものの、4月20日から9連敗して早々脱落。その後は5月3日のロッテ 戦で5者連続本塁打、8月21日には高橋善正 が西鉄戦で完全試合 を達成したのが目立つ程度で、4位の南海 に13ゲーム差の5位だった。悪い事は重なるもので、シーズン中の8月17日に大川博 オーナーが死去し、博の長男でオーナー代行の大川毅 が新オーナーに、岡田茂 新東映社長がオーナー代行に。しかし大川博の後を受けた大川毅と岡田茂には球団経営の意欲がなく、フライヤーズの運命に黄信号が灯りだした。シーズンオフには大橋穣 、種茂雅之 と阪急 の阪本敏三 、岡村浩二 、佐々木誠吾 との交換トレードが成立。大橋は移籍先の阪急で大いに活躍して翌1972年 の優勝に貢献し、阪急黄金時代の立役者の一人となった。
レギュラーシーズン
1971年パシフィック・リーグ順位変動
順位
4月終了時
5月終了時
6月終了時
7月終了時
8月終了時
最終成績
1位
近鉄
--
阪急
--
阪急
--
阪急
--
阪急
--
阪急
--
2位
阪急
0.5
ロッテ
2.5
ロッテ
6.5
ロッテ
1.0
ロッテ
3.5
ロッテ
3.5
3位
西鉄
1.0
近鉄
6.5
近鉄
14.0
近鉄
15.0
近鉄
15.5
近鉄
18.0
4位
南海
1.5
南海
12.0
南海
17.0
南海
14.5
南海
16.5
南海
22.5
5位
ロッテ
2.0
東映
13.5
東映
21.0
東映
24.0
東映
28.0
東映
35.5
6位
東映
7.0
西鉄
西鉄
24.5
西鉄
26.5
西鉄
32.5
西鉄
43.5
[ 1]
オールスターゲーム1971
できごと
選手・スタッフ
監督
コーチ
二軍コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
[ 4]
表彰選手
ベストナイン
選手名
ポジション
回数
大杉勝男
一塁手
3年連続4度目
ドラフト
出典
^ a b “年度別成績 1971年 パシフィック・リーグ ”. 日本野球機構 . 2017年6月14日閲覧。
^ 毎日新聞1971年5月4日18面「連敗東映 1度"死んで"豪打復活 10回怒りの5連続ホーマー "ゲームセット"から大逆襲」毎日新聞縮刷版1971年5月p93
^ 毎日新聞1971年8月22日19面「高橋善(東映)が完全試合 12人目の大記録」毎日新聞縮刷版1971年8月p661
^ ベースボールマガジン2002夏季号 , ベースボールマガジン社, (2002), p. 123
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。