たくぎん野球部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/19 17:06 UTC 版)
| チーム名(通称) | たくぎん、拓銀 | 
|---|---|
| 加盟団体 | 日本野球連盟 | 
| 加盟区分 | 企業チーム | 
| 創部 | 1950年 | 
| 廃部 | 1996年 | 
| チーム名の遍歴 |  
     
  | 
   
| 本拠地自治体 | |
| 都市対抗野球大会 | |
| 出場回数 | 20回 | 
| 最近の出場 | 1995年 | 
| 最高成績 | 準優勝 | 
| 日本産業対抗野球大会 | |
| 出場回数 | 4回 | 
| 最近の出場 | 1971年 | 
| 最高成績 | 優勝 | 
| 社会人野球日本選手権大会 | |
| 出場回数 | 10回 | 
| 最近の出場 | 1995年 | 
| 最高成績 | 優勝 | 
| 全日本クラブ野球選手権大会 | |
| 出場回数 | ※出場資格なし | 
たくぎん野球部(たくぎんやきゅうぶ)は、北海道札幌市に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。1996年に解散した。
概要
1950年5月、北海道拓殖銀行の硬式野球部『北海道拓殖銀行野球部』として設立。
1955年頃から本格的な強化に取り組み[1]、1957年に都市対抗野球初出場を果たす。1964年から1970年にかけては7年連続で都市対抗に出場し、その間1969年には産業対抗で優勝し、はじめて社会人野球の2大大会(都市対抗と産業対抗)で優勝旗を北海道にもたらした。1976年には都市対抗野球で準優勝を果たした。さらに、1978年には日本選手権で初優勝を達成。北海道5強の一角として全国大会で活躍した。
1992年、チーム名を『たくぎん野球部』に改称し、翌1993年から3年連続で都市対抗に出場していたが、同年末に母体の経営悪化から同行のスキー部などとともに休部が決定。1996年の都市対抗野球北海道予選を最後に活動を停止した。22人いた部員の多くは、シダックスやサンワード貿易、王子製紙苫小牧などに移籍した[2]。なお、翌1997年に母体は経営破綻している。
沿革
- 1950年 - 『北海道拓殖銀行』として創部。
 - 1957年 - 都市対抗野球に初出場。
 - 1969年 - 産業対抗で優勝。
 - 1975年 - 日本選手権に初出場。
 - 1976年 - 都市対抗野球で準優勝。
 - 1978年 - 日本選手権で優勝。
 - 1992年 - チーム名を『たくぎん』に改称。
 - 1996年 - 活動停止。
 
主要大会の出場歴・最高成績
- 都市対抗野球大会 - 出場20回、準優勝1回(1976年)
 - 日本産業対抗野球大会 - 出場4回、優勝1回(1969年)
 - 社会人野球日本選手権大会 - 出場10回、優勝1回(1978年)
 - JABA北海道大会 - 優勝4回(1959年、1960年、1965年、1971年)
 
主な出身プロ野球選手
- 榎本直樹(投手) - 1971年ドラフト2位でヤクルトアトムズに入団
 - 千藤三樹男(外野手) - 1971年ドラフト7位で東映フライヤーズに入団
 - 原田末記(投手) - 1978年ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団
 - 中村弘道(投手) - 1985年ドラフト2位で南海ホークスに入団
 - 吉田修司(投手) - 1988年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団
 - 佐藤真一(外野手) - 1992年ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団
 - 吉井晃(投手) - 1992年ドラフト6位で横浜ベイスターズに入団
 
かつて在籍していた選手
- 山本文博[3](内野手) - 休部後星槎道都大学、札幌国際大学監督[3]
 - 田中善則(内野手) - 休部に伴いシダックスに移籍し、1999年の第26回社会人野球日本選手権大会で最高殊勲選手賞を受賞
 - 横山靖史[3](外野手) - 休部後酪農学園大学外部コーチの後2022年より監督
 - 岩田哲明 - 休部後小樽野球協会総監督[3]
 - 大滝敏之[3] - 引退後本野球部最後の監督を務めた後[3]、1999年より苫小牧駒澤大学[4](現・北洋大学)監督[3]
 
脚注
関連項目
- 社会人野球チーム一覧
 - 都市対抗野球大会 (北海道勢)
 - 白髪良一
 - イオンモール札幌平岡 - 自社野球場跡地に建設。
 
- たくぎん野球部のページへのリンク